いったい なぜ日本人のご先祖さまは 1,000年にもわたって 妊婦と男性器(=ペニス)を せっせと、せっせと 作り続けたのだろう?  縄文人の性と、ペニスと、妊婦と、そして子供、豊かさ、というのが今回のテーマである。

 

北は北海道から南は沖縄まで、全国各地の縄文遺跡から、 妊婦をかたどった土偶と、ペニスをかたどった石棒 が、何千、何万も出土している。

 

僕が中学生のとき、土偶については歴史の教科書に写真が載っていて 「豊かさと繁栄の象徴として 儀式に使われた」 という説明があった。

 

一方、石棒 については 中学校教科書には出ていなかったように思う。 授業で教わった記憶もない。 高校生用のいわゆる 資料集、 いま僕の手元にあるのは 「山川  ビジュアル版日本史図録」であるが、青森県三内丸山遺跡から出土した石棒の写真が載っており、やはり 「豊かな恵みを願う呪術に使われ…」という説明がある。

 

つまり、いずれにせよ、中学生、高校生に向けた説明としては、 「妊婦の像も、石でつくったペニスも、豊かさ、反映を願う、象徴的な造形物である」 というわけである。 

 

 

 

(↑神奈川県立歴史博物館にて)

 

しかし、豊かさと繁栄の象徴が なぜ 妊婦とペニスなのだ? 、という 素朴な疑問を 僕は 昨年の暮れから 新年が明けるまで考え続けていた。 そういうわけで僕の令和2年は ひたすら 妊婦とペニスのことを考えながら幕が開けた。

 

そもそも、縄文の人々に 「豊かさ」とか「繁栄」などという抽象的な概念が あったのだろうか?

 

土偶や石棒がつくられたころの縄文時代中期は、ようやく 原始的な農耕が行われるようになったばかりで、まだまだ狩猟・漁労・採集が中心の生活で、貯蔵技術も不確かであり、貨幣(=お金)も存在しない。

 

物を大量に蓄えることができず、貨幣もない社会において、「豊かさと繁栄を象徴する祭具が全国各地でつくられた」 という説明は 僕にとってどうしてもピンとこないというか、ほとんど意味不明なのである。いっそのこと、豊かさ、繁栄などという 抽象的な概念を無理にこじつけないで、 もっとストレートで、シンプルな思考でとらえればいいじゃないか? と僕には思えるわけである。

 

 

この際、シンプルに考えて、そしてストレートに言ってしまおう。

 

妊婦をかたどった土偶と、ペニスを模した石棒を 並べてみて そこから僕が真っ先に思い浮かべるのは、 セックス である。 セックスして 子供が出来ることである。 それ以上でも以下でもない。 「社会の豊かさと繁栄」なんか思い浮かばない。

 

縄文の人たちにとって、 セックスして子どもができることこそが、何よりもハッピーなことだった、と考えるのが僕にとって、とても自然なことである。 

 

豊かさの「象徴」、繁栄の「象徴」 、ではなく、 ただただ シンプルに、たくさん子供が出来ますように!、と祈った。 そのために 土偶や石棒をつくったのだと僕は思う。

 

厳しい自然と戦いながら生活していた縄文の人たちは、 現代人につながる豊かな人間性や感性を持っていただけではなく、 自然の中で生きる 生命としての、シンプルな魂をも持っていたのではないだろうか? 野生の動物たちと同じように 「命をつなぐこと、子孫を増やすこと」 、そのために全力で生きたのだと 僕には思えるのだ。

 

セックスして子供ができることは 縄文の人にとって、ただただ おめでたいことであり、ありがたいことであり、生きていることの喜びであり、目的であった、と僕は思う。

 

縄文人にとっての 「性」 は、 吉事であり喜びであり幸福そのものであったのだと思う。 だから こんなにもたくさんの土偶や石棒がつくられたのだ。

 

そして、生まれてきた子どもたちは 現代社会とは 比べものにならないほど 大切にされ、愛されていたのではないかと思う。 子どもたちが、たくさん生まれ、元気に育ってゆくことが、豊かさや繁栄の 「象徴」 ではなく、 豊かさそのもの、だったのだから。

 

縄文の子供たちは、 手間暇を掛け、大切に育てられ、守られていたはずだ。 一方、 現代の子どもたちのように、 勉強しろとか、いい大学へ行けとか、英語くらい話せないと生きていけないぞとか、言われることはなかった。 つまり、愛情はふんだんに注がれる一方、 要求されることは ただ 病気やケガをしないで元気に育つことだけだった。

 

縄文より後の時代になって、 豊かさ、の定義、豊かさの種類が少しずつ増えた。大きな家、 農業生産力、 軍事力、 鉄や銅、 お金、 そして現代では、 家電製品、マイホーム、クルマ、土地、金融資産…

 

欲しいものがたくさん増えるほど、子どもたちへの関心は、どんどん優先順位が下がってしまった。

たくさんの子供たちが元気に育っていればそれが豊かさなのだ、それで十分なのだとは、思えなくなってしまった。 

 

子供たちに注がれる愛情はうすくなり、 反対に、 子供たちに対して 要求することは 山のように増えた。

 

縄文の人々にくらべて私たち現代人が性に対する大らかなスタンスを失ってしまったことと、 現代の子どもたちが置かれている状況とは、 実はつながっているのだ。

 

僕が この半月もの間、 妊婦とペニスをながめながら 考えていたことは 以上である。

 

(文: きのぴお・ぴーぱーたん)

 

 

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