「幸福論」について語るのはあまり好きではないが、「特攻隊員の遺書」を読んでいると、過去の日本人が何を大切にしていたのかわかる。つい第3弾を書きたくなった。幸福は主観なものだから、「私はこれで幸せよ」と言われれば、「そうか、仕方が無いね」というしかない。「倫理社会」の時間だったかな、「最大人数の最少幸福」だったか「最少人数の最大幸福」だったか、そんな言葉を習った。絶対君主制と民主主義の違いの説明だったか、もう記憶が曖昧になっているが、結構ショッキングな言葉だった。「共産主義」についても、結局は「再分配」の問題だと習ったようだ。みんなが生産したものを、一か所に集めて、みんなに平等に分配するのである。その時習った覚えがあるのが「能力に応じて」が良いか、「必要に応じて」が良いかだったように思う。この時は「生産性」の問題は扱わなかったようである。共産主義社会では国家が管理するので自由がないが、平等はあるというようなことを習った記憶がある。友人と話したことがある。「原始共産主義社会だったら上手くいくかもしれないね」と。小規模な共同体で、生産力があまり変わらない人々が協力して暮していく。幸福と感じるかどうかはわからないが、比較する相手がいなければ幸福と感じるかもしれない。汚職や賄賂の横行する事態は想像していなかった。

 日本は狭い国土に豊かな自然に恵まれた環境である。縄文時代の人々は狩猟採集の他に栽培や養殖なども工夫してやっていたようである。数十人から数百人の村落を形成していたようだ。東北や北海道も比較的暖かったようである。そのうち寒冷化していったようである。平和な時代が1万年以上続いたものと思われる。伝統文化を尊重する社会であったようである。縄文時代の漁民は美しい貝を求めて、命がけで漁をしていたそうである。貝の名前は忘れたが、東北地方から南の海に取りに行っているようだ。三浦半島や紀伊半島まで出かけた形跡があるそうである。宗教的な儀式に使われたのかもしれないが、愛する女性に贈る為のようであった。古代の昔から愛する女性の為に命がけの事をやるのは男として当たり前だったのであろう。かなり多くの若者が亡くなったらしい。逆にその貝の価値を高めたらしい。

 狭い国土には多くの森林がある。日本は平野部が少ないのである。耕作地も少ないのである。弥生人は農業主体の暮らしを営んでいた。少ない耕作地を巡って争ったり、水争いもあったであろう。縄文人よりも争いの火種を多く持っていたようである。「必要は発明の母」は今も昔も変わらないのであろう。優秀な武器が作り出されたのであろう。世界の四大文明は皆大河の側の農業地帯で発達している。現在のように冷凍技術が発達していて、食糧の長期保存が可能であれば、食糧を巡る争いは少なかったであろうが、昔は肉や魚はすぐに腐る。大量に収穫しても食べきれない物は無駄になる。余分に収穫しようとしなかったであろう。ところが農作物は長期保存が効くものもあった。農業は富の集積を可能にした。富裕な人が誕生したのである。多くの者を養えると権力が生じる。ちょっとした「弱肉強食の世界」が生まれるのである。

 この年になって振り返ってみて、幸せを感じたのはどういう時かを考えてみた。単純だが「美味しいものを食べた時」「人から褒められた時」「ギャンブルで勝った時」「異性にもてた時」「ほしい物が買えた時」などがあるが、あまり永続的なものがない。その時はいつまでも続くかと思っても案外短い。一瞬という時もある。しかしかなり永続的なものとして、「家族と一緒に暮らした時間」がある。あと「仲間と一緒に何かをした時」もある。そしてその思い出に浸っている時間が幸せだったりする。思い出は美化されるので、若いあの時が無性に懐かしくなる。

 私の勤めた学校では「帰属意識」を大事にしていた。部活動も奨励したし、文化祭や体育祭は学校挙げてのイベントである。クラスへの帰属意識を高めるためにも「合唱コンクール」などにも力を入れていた。私が進路指導で大事にしたのは、「大学受験は団体戦である」ということだった。「絶対に一つは合格しろ。皆におめでとうと言ってもらえるようにしろ」「家で勉強するほうが効率的と思えるかもしれないが、学校でも勉強しろ。皆に応援してもらえるようにしろ」などを生徒たちに言っていたように思う。結局は自分が帰属しているところで認められることが安定的に幸せを感じられるのではなかろうか。「家族制度」の弊害は嫌というほど聞いてきたが、「家族の中にこそ自分の居場所があるというのが、幸せの源ではなかろうか」と私は考えている。今私は1人暮らしである。自由気ままである。しかしそんなに幸せを感じていない。あまり不幸だとは思いたくはないが、そんなに幸せとも思えない。体も不自由になってきているので、自由に動けることの素晴らしさをもう少し満喫して置きたかったなと思うこの頃に、「特攻隊員の遺書」である。自分が情けなくなってくる。無駄に生きて来たなと思われてならない。