高校では1年次に「地理」を習った。2年次に「倫理社会」と「日本史」を習った。3年次に「政治経済」と「世界史」を習った。中学校では1年次に「地理」で、2年次に「歴史」で、3年次に「政治経済社会」だったと憶えている。中二の時の「歴史」の先生は考古学が趣味で、自分が発掘したものなどを教室に持ち込み、結構古代の日本について語っていたように思う。「社会」という科目は好きだったし、得意科目ではあった。しかし結構得意で失敗する例は多い。二次試験の「世界史」で、「フランス革命」について論述しないといけなくて困った覚えがある。「フランス革命」の意味など考えたこともなかったので、ほとんど何も書けなかった。後に昔は「日本史」と「東洋史」と「西洋史」しかなくて、「世界史」の概念がなかったそうであるというのを読んで、なるほどと思った。「東洋史」というのは、「支那史」の事で、「秦」から大体「唐」までの事が多かったようである。関連で朝鮮半島の事やベトナムの事などを扱ったそうである。要するに「漢字文化圏」で、文字で記録が残っている所だけのようである。「考古学」は少し得体のしれない学問だったようである。「万国史」という考えもあったようである。それぞれの国の歴史を羅列するものであったらしい。「世界史」と言うと「東洋史」と「西洋史」をそれぞれ述べるだけで、包括的に語ることはなされていなかったようである。そのうち「世界」と言うと、西欧の事になっていったようである。イギリス、フランス、イタリア、ドイツなどで、ギリシャやローマは古代史に分類されて、近代史からは除外されているような感じだったらしい。

 以前にも書いたが、イタリアやフランスの映画を見たりした時、やはりキリスト教について知らないと、本当に理解することは出来ないと思った。画面に映し出される絵画や風景についてなんの感慨も湧かないようでは、理解することは無理だと思った。そこで取った行動は、日本の映画に絞ることであった。もう外国に対して深い理解をしようという気が無くなったのである。

 大学で「言語学概論」を学んでの、一番の収穫は、要するに英語やドイツ語が親類の言葉で、フランス語とスペイン語も親類の言葉である。イギリス人やイタリア人が4ヶ国語も5ヶ国語も理解できたのは、非常に優秀だったからではないのだということに、自分の中では、そういう形で腑に落ちたのである。日本で言うところの「方言」であるという理解である。

 語学が苦手だった私は、何故自分は語学が苦手なのだろうかと考えた。勉強不足が一番の理由に違いないが、それにしても欧米人が数ヶ国語が出来るというのは信じられなかった。話すことは出来なくても清国と朝鮮王朝などとは筆談が出来るということだったが、どうも西洋の言葉は違うようである。ある時「福翁自伝」だったろうか、ようやく蘭学を習得した福沢諭吉はイギリス人と出会って、自分のオランダ語が通用しないことが分かった。これからは「英学」だと悟り、「英学」に励んだそうである。「蘭学」の習得には何年もかかったのに「英学」は1,2年後には理解できるようになったらしい。その頃は福沢諭吉凄いと思ていたが、オランダ語が出来るようになっていた福沢諭吉はその知識を応用したのであろう。「蘭学」とか「英学」とか言っているが、要するに「語学」の事で、オランダ語や英語で読み書きが出来るようになったということであろう。

 私は小学校上がる前は熊本県との県境にある大牟田という所で生まれ育った。小学校入学直前の3,4カ月前に山口県の豊北町(現在は下関市と合併している)に家移りをした。入学前は家族としか話さないので問題はなかったのであるが、小学校に入学すると同級生から「お前言葉が違う」と言われたものである。読み書きは問題はないが、話すと同級生とは話し言葉が違っていたらしい。別にいじめを受けた覚えはないが、一種の疎外感みたいなものは感じたようである。一人遊びをするようになったのも、この頃からである。3年生の時大牟田に戻った。喜んだのも束の間で、またしても「お前の言葉はおかしい」と言われた。一度ならずも二度も「お前の言葉はおかしい」と言われたのは、後々まで尾を引いた。小学5年生になるまで、友達は出来ず一人遊びの毎日であった。読書は好きで、小学校の図書室で興味関心のある本はすべて読んだと思う。家にある本と言えば、お経の他は母が読んでいた「釈尊物語」の他、二番目の姉の本だったと言われる「啄木歌集」と「藤村詩抄」であった。すぐ上の姉が借りてくる本もほとんど読んだのではなかったかな。5年生の途中に我が家にもTVが登場した。しかしチャンネル権は親にあり、電気代がもったいないという理由で、好きにTVをつけることは出来なかった。伝記物や探偵小説、科学物などが好きであった。歴史物はそんなに読んだ憶えはなかった。

 伊能史尊氏のブログのヨーロッパの近現代史は面白かった。「映像の世紀」で第一次世界大戦前後の事をやっていたが、興味深かった。白人同士の殺し合いもあれほど凄いのであれば、肌の色が違う、同じ人間とも思っていない有色人種を虐殺するのも宜なるかなと思ってしまった。おそらく感覚が麻痺しているのであろう。同じキリスト教徒同士でもカソリックとプロテスタントで、あのように殺し合うとは信じられなかった。異教徒よりも異端の方が近親憎悪的に憎いといった意見も目にしたが、宗教戦争の恐ろしさを感じたものである。それと比べると現在のイスラエルのガザ地区への攻撃は、一部の人に言わせると生ぬるいということになるのかもしれない。将来の禍根を絶つためにも子どもも積極的に殺した歴史があるのである。なかなか歴史に学べないのが人間なのかもしれない。むしろ今のところ免罪符的な役割さえ果たしている。ロシアは黒海に進出出来なかったら、極東に進出するのであろうか。危機への恐れが暴走を生むのはよくあるところである。

 さてどのように情報を共有して、知識を正確にして、実践へと昇華できるのであろうか。近代史以降は個別の歴史で語ることはあまり望ましくないように思える。世界史的観点から東西の、更に南北の問題を考えるべきのようである。ウクライナ戦争を対岸の火事と見ていると、必ず飛び火してくるであろう。所詮は「白人の戦争」と見るのは良くないであろう。では、何をすべきなのか。それがわからないのが困ってしまう。よく事態を注視しようというのは、無責任なのかな。「戦争は始めるのは簡単だが、終わらせるのはなかなか難しい」とよく言われるが、やはり停戦しかないのかな。どういう停戦条約を結ぶか、それが問題か。ウクライナ国民が玉砕するまで待っているわけにはいかないだろう。