録画していた「倉本聰、富良野にて~創~」を見た。小山薫堂のナレーションで、小山が富良野の倉本聰を訪ねて、話を聞くというスタイルだった。富良野演劇工場で2年半ぶりの再会らしい。昨年は88歳で舞台「悲別」を再演したそうだ。今年は89歳で映画「海の沈黙」を作ったらしい。36年ぶりの映画である。創作が駄目になった話で、考えるのと手で字を書くスピードについて語っていたのが印象的であった。「思考がね 原稿用紙にうつせないのね」「書けなくなるというのが、どういうものかわからなかったけれど、こういうことかとわかった」と。手で原稿を書き写せなくなると思考も止まっちゃうと語って、「絶望的な気分になる」と。考えたことを文字に置き換えるということは、私も苦労した。どうしても考えの方が先に進んで、文字に直すのが遅れる。中学生の頃は真剣に速記を習うことを考えたものである。考えを書き写すのが大事で、字の上手い下手は関係なかった。むしろ自分だけが読めれば良かった。小学校の頃から通知表に「判読しがたい」と書かれても一向に気にならなかった。考えに字が追い付かないことの方が問題であった。時々担任がノート提出を求めることがあったが、私は提出しなかった。催促されると、ノートは1冊しか買えませんと噓をついていた。全教科1冊のノートで済ませていたが、1年間で半分も満たないことが多かった。そしてほとんどが、言わば落書きである。小学生の頃は家庭の事情も分かっているし、成績優秀なのも学級担任はわかっているので、夏休みの宿題を出さなくても、催促されることはあまりなかった。教員になってわかったが随分扱いずらい生徒だったのではなかろうか。通知表もさすがに1は無かったが2~5まであるものであった。テストでは大体1番を取っていて、私の記憶では2回ほど2番になったことがある。1番は2回とも女子で、父からは「女に負けたごつしてつまらん」と怒られた。私が女子の方が優秀というのは、この頃からの持論である。中学になると日記をつけ始めるが、見られると嫌なので、益々字が汚くなった。自分でも読み返せないレベルになった。私にとって字は、自分の考えを書き写すものであった。今これはPCで打っているが、一時ブラインドタッチに憧れて、これも習おうとしたが、人から習うというのが苦手なのであろう。結局は今でもほとんど1本の指で打っている。Aだけは左手を使っているがほとんどは右手中指1本である。やはりイライラする。

 脱線してしまった。同類の人間を見つけて嬉しかったので、つい横道にそれてしまった。小山薫堂が倉本聰を今回訪ねたのは、倉本聰が墓を建てるというので心配してやってきたのである。「北の国から」の最初のシリーズで、富良野を一望できる場所から「さよなら1980年」と叫ぶシーンがあるけど、そこだと語っていた。ここ1,2年で周りがバタバタ死んでいく。そこで山田太一の事が出て来て、倉本聰の紹介が入った。1935年(昭和10年)生まれで東京出身である。東京大学文学部を卒業して1959年にニッポン放送に入社。在学中からラジオドラマの脚本を書き始める。倉本聰が語っていく中で、向田邦子の名前も出てくる。向田邦子、山田太一、倉本聰の3人は良質なテレビドラマの脚本家というイメージである。昭和1ケタ世代である。倉本聰は2ケタに足を突っ込んでいるが、この世代には面白い人が多い。一昨年亡くなった姉の配偶者も昭和1ケタで東京生まれである。倉本聰の語り口に義兄と似たものを感じた。懐かしい感じを受けたのはそのせいかもしれない。東京生まれの東京育ちなので、まさか東京を離れて福岡まで移住してくれるとは思わなかった。いずれは東京に帰るのであろうと思っていたが、北品川にあったマンションを売って、平成16年に移ってくれた。翌年に「福岡西方沖地震」が起きたので、東京から移ってきて、地震は大丈夫になったかなと思ったのに、こんな大きな地震に出会うとはと言っていた。義兄の事は別の機会に書きたいと思っている。

 倉本聰の脚本で印象付けたのは「前略おふくろ様」だった。萩原健一主演のTVドラマでよく見たものである。仕事が忙しかったので、毎週見るわけにはいかなかったが、録画もその頃は付けていなかったので、時々だったがいいドラマだと思った。テンプターズのショーケンがどんな演技をするのかぐらいの気持ちで、見始めたのだが、グッと来たものである。向田邦子作品も山田太一作品も主演の俳優とともに記憶していることが多い。向田邦子作品では岸本加世子や杉浦直樹、「あうん」の4姉妹とかである。名前が全員出てこないのがつらい。加藤治子、いしだあゆみ、風吹ジュンだったかな、主演の女優の顔が出てくるが名前が出てこない。記憶力に自信があった分だけショックも大きい。山田太一作品ではやはり鶴田浩二かな。(つづく)