「JAZZと歌謡曲とシャンソンの夕べ~R60」での桑田佳祐の歌を聴いた。NHKで放送されたもので、録画していたので聞いてみた。選曲がいいのでつい聴き入った。桑田佳祐を初めて見たのは「ザ・ベストテン」である。確かベストテン入りしていたのではなく新人紹介で面白いバンドというような紹介であった。「勝手にシンドバッド」というふざけた曲名で、その頃の視聴者ならすぐに分かったと思う。沢田研二の「勝手にしやがれ」とピンクレディーの「渚のシンドバッド」をもじったものである。おふざけバンドかと思って見ていたら、意外にもエネルギッシュで新鮮であった。「ザ・ベストテン」のスタッフもよく見つけたなと感心した。その後の活躍は言わずもがなである。桑田佳祐に対してはファンでもないが、何故か気になるという感じであった。歌手桑田佳祐は正直あまり評価していなかった。上手いのか下手なのかよく分からない。別に上手い歌手が好きなわけではないが、下手過ぎるのは勘弁してほしいという感じである。GSで残るのは沢田研二、新御三家で残るのは郷ひろみと友人と予想し合って、当たったのは今では楽しい思い出である。彼にはボブ・デイランやジョン・レノンを教えてもらった。日本人では岡林信康だった。漫画家では永島慎二であった。小学校と中学校で同級生になった。高校では同じクラスにはなったことがなかったが、同じ高校に通った。彼は東京に7年間がいたが、そのうち6年間は一緒だった。同じバイト先になったこともある。私はあまり人に対して劣等感を持つことは無いけれど、彼にだけは劣等感を持ったものである。音楽と美術に対しては全くかなわないと思った。

 さて番組は4月に神戸で行われたライブを45分に凝縮して放送された。1曲目は越路吹雪の「サン・トワ・マミー」だった。当時一番うまい歌手は美空ひばりか越路吹雪かと言われたものである。戦後すぐにデビューした美空ひばりは芸歴は長いけれどまだ30前の若さであった。先日「伝説のコンサート 美空ひばり」を途中から見たが、改めてすごいなあと思った。まだ50ちょっとであったのである。昭和の終わりとともに、美空ひばりも石原裕次郎も亡くなったなあと思い出した。

 次に歌ったのは笠置シヅ子の「東京ブギウギ」だった。服部良一作曲である。桑田佳祐は軽快に歌っていた。この後に日吉ミミの「男と女のお話」を歌った。1970年の歌謡曲である。いつもはワンコーラスかツーコーラスで終わるのであろうが、スリーコーラス以上歌っていた。丁寧に歌っていて好感が持てた。次は青江三奈の「恍惚のブルース」であった。浜口庫之助作曲で川内康範の作詞である。最近の作詞作曲歌唱も一人でやるのもいいが、やはり分業体制もしっくりくる。これも3番まで歌っていた。

 5曲目は美空ひばりの「リンゴ追分」であった。私が生まれた頃の曲である。バンドの演奏も良かった。

 その次は「L・O・V・E」であった。私が中学校の頃に流行った憶えがある。ここでバンドの紹介をしていた。

 7曲目になるのかな、加藤登紀子と長谷川きよしの「灰色の瞳」だった。私が上京して初めて見た有名人は盲目のギタリスト長谷川きよしと加藤登紀子だった。田舎者の常として上京すると有名人に沢山会えると錯覚するが、実際はほとんど会えない。確か2人を見たのは羽田空港だったと思う。まあ特殊な場所に行かないと会うことは無い。

 その次は美輪明宏の「ヨイトマケの唄」だった。丸山明宏で有名で「シスターボーイ」という名称もこの頃に出来た言葉であったかな。涙もろくなっている私は桑田佳祐の歌で泣いてしまった。一時期はこの歌は放送されなかったと記憶しているが、本当はどうだったのか。私の母はこの頃は化粧品の販売をしていた。お得意さんには失業対策で働く婦人も多かった。俗に「失対さん」と呼んでいたが、日焼け止めのクリームを求めるのである。少ない給金のなかから、ツケで高い化粧品を買っていくのである。私の目から見たら、あまり効果が有るように見えない。第一仕事柄もう無理な話と思っていたので、貧乏人が貧乏人に売る付けている構図がたまらなく嫌だった。失業対策事業はお上がする仕事なので、中には楽な仕事もあるが、大抵は大変な仕事が多く、低賃金であった。桑田佳祐はギター片手に歌っていたが、やはり味があった。歌のせいか、歌詞のせいかわからないが、結構な涙が流れ落ちた。

 次は気分を変えるような「銀座カンカン娘」だった。その次は「ラストダンスは私に」だった。越路吹雪の歌を思い出した。訳詞の岩谷時子の名前も懐かしい。沢田研二の「君をのせて」も岩谷時子の作詞であった。次は尾崎紀世彦の「さよならをもう一度」であった。尾崎紀世彦を聞くと上京した頃を思い出す。1971年の上京だったからな。通算4度目の上京だが、この時はもうしばらくは田舎に帰らないつもりであった。出来れば一旗揚げたいが、そんなのはなかなか難しいことはよくわかっているつもりであった。住むところと稼ぐところを見つけ出さないといけない。結構悲壮な感じで上京した。5万円のお金を持って上京した。60年代は高度経済成長で、しっかり働けばなんとか暮らしていける感じであった。しかし70年前後は「破壊と混沌の時代」という感じがしていた。先行きが見えないのである。しかし若者にとっては、いつの時代でも「先行きは見えず、将来は不安なもの」と言ってもいいのではないだろうか。わかったようなことをしたり顔で語る大人はいつの世の中にもいる。しかしそのようになることはまずない。「過去は変えられないが、未来は変えられる」というが、最近は過去さえ塗り替えられている。「事実は変えられないが、事実の持つ意味は変えられる」とも言う。40年代後半から70年代初めの歌を桑田佳祐は歌ったが、桑田佳祐はどのような関わり方をしてきたのであろうか。それも興味を持った。桑田佳祐も一種の天才であろうが、どのようなものを受信して、どのように発酵させて、現在の桑田佳祐を形作っているのだろうか。