小さい時の違和感は、時々現れる日本語の発音であった。b音の発音がp音になることがあった。父は私が知っているだけで5,6回は苗字が変わっている。私は一度も変わっていないし、兄も父の姓のままであった。母は二度変わっている。姉は一度である。一番上の姉も、二番目の姉も結婚して一度変わっただけである。父のようにコロコロ変わるのは、やはり異常である。私は単に結婚したり、離婚したりする度だから、しようがないなあと思っていただけであった。しかし今となって思えば、複雑な心境だったであろうと推察できる。私はあまり触れてはならない事のように、やり過ごしてきた。

 李氏朝鮮王朝から大韓帝国になり、日韓併合で日本になったのは明治43年、1910年の事である。父の一番下の弟は北京生まれであった。祖父は当然漢文の読み書きは出来たであろうから、父の話の断片を繋ぎ合わせると、どうやら医者の真似事みたいなことをしていたようである。漢方医というか、漢方医よりも薬剤の方だったかもしれない。若い頃は何故北京に移ったのか、考えたこともなかった。「冬のソナタ」の大ヒットでヨン様ブームが起きて、私の家でも「チャングムの誓い」などの韓国時代劇、ペ・ヨンジュンの現代劇などをよく見るようになった。両班の家では、一族の繫栄を祈るために、息子を仏門に入れることが、割とあったらしいことを知った。片足の不自由な父は大邱中学校を卒業した後、広島の仏教専門学校を卒業したことになっていたが、その理由も何となく想像できた。広島の仏教専門学校というので、調べて見たがそんな学校はなかった。浄土真宗の学寮みたいなものがあったようである。官立の専門学校ではなかったようだ。父が親しくしていたお坊さんに、同窓生であるというお坊さんがいた。品の良い、いかにも学がありそうな高僧の風貌があるお坊さんであった。広島仏専卒というのは疑わなかった。母は高女卒を家庭調査書には書いていたが、実は高等小学校卒であった。高等女学校卒ではないだろうと問い詰めると、実科女学校卒と噓を重ねていた。母が姉のように慕っていた従姉が高等女学校卒だった。彼女は熊本の第五高等学校の学生と交際をして、後に結婚している。母の憧れだったのであろう。ラブレターの橋渡しをしたりしたと言っていた。彼は四国の宇和島の出身だった。母はバレーボールをしていた従姉に見習って、9人制バレーボールの後衛をしていたそうである。母は次女として生まれたが、すでに長女は亡くなっていて、長女のように育てられたという。三歳下に妹がいたが、先日叔母からハガキが届いた。兄と姉が施設に入っている叔母を見舞い、母が亡くなったことを知らせた。ハガキの冒頭に「姉の事知らなくてゴメンナサイ」という言葉で始まっていた。今年で100歳になるとは思えない文章であった。昔母の事を羨ましがるような言葉を私に伝えたことがあった。「姉さんは何でもしてもらって、私は何もしてもらえなかった」と。母は早生まれなので、学年としては4学年違うのであるが、当時は随分と違ったのであろう。母は見合いをして大連に行ったが、自分は誰とも付き合えなかったとも言っていた。昭和7年生まれの五木寛之が昭和5年生まれの野坂昭如の事を、受けた教育が随分と違っていたと語っていた。昭和20年の時点で何歳だったかは、日本人を語る上で欠かせない要素だと思っている。更にどこで玉音放送を聞いたかも重要であろう。大正13年生まれの叔母は内地にいて生き残ったが、大連にいた姉よりも苦しかったであろう。8月7日の大空襲で、母と多くの親戚を失った叔母は大変だったであろうと、今なら想像できるが、幼い時は母の話が一方的に入っていたので、引揚者の苦労の方が心に沁みた。立場によって見え方が随分と違うものである。

 今日は「父の日」である。ずいぶん昔に母が私に「父の日のプレゼント」を渡してきたことがある。我が家の大黒柱はあなただから、ということだったのだろうか、よくわからないが、有難がった。母に認められたような気がしたものである。しかし後に認知症が酷くなり、息子と認識してもらえなくなってからは、常に「父さん」と呼ばれてしまった。私の父の事である。

 私の父は糖尿病と前立腺肥大を抱えていた。現在両方の病気は私も苦しめている。年を取ってからは遺伝の事はよく考える。父から伝えられたものに、糖尿病の遺伝子が有ったことは間違いないであろう。激情型の性格であったことも間違いなかったようである。屁理屈好きも変わらないかな。地頭が良いのは間違いなく父の遺伝であろう。記憶力が生かされるのは、そんなに多くはない。日本の入試制度は記憶力が良い人間に有利に働くが、今ではAIの普及で、重要性は下がっている。記憶していることをいかに生かすかが大事であるが、どうも父も私もあまり上手ではなかったようである。