父は僧侶だったので、当然仏教になるが、後に思い返すと儒教の教えが多かったように思う。お寺らしいお寺で家族一緒に暮らしたのは、山口のお寺だけである。私が小学校上がる前から小学校2年生までの約2年3ヶ月である。異母姉である上2人の姉は、佐賀や大分の寺で一緒だったという話である。小学校3年生になってからは、学区が変わる転居は母が頑として拒否したらしかった。一つ上の姉でも2回の転校があったが、私は1回だけで済んだ。父は単身赴任というか、「布教師」の免許も持っているので、無住のお寺に行って、そこにしばらく住職として勤めていたようだ。鹿児島に近い熊本の片田舎のお寺や長崎の島原半島のお寺にしばらくいたりしていた。「一所不住」とか言って、家移り好きを言い訳にしたような感じであるが、内心感心したのは必ず田舎の酷いお寺であったことだ。金儲けが好きで、商売もいろいろ手を出したが、お寺の選び方は、住職がいなくて困っているお寺ばっかりだったような気がする。母に言わせると、「父さんは商売を始めて失敗したことがない。しかしすぐに飽きるので、大きく儲ける前に辞めてしまう」と。記憶力がいいのも自慢であった。手帳などは持ったことがないそうである。5歳か6歳の頃には、漢文の読み書きが出来て、近所の村人が腰弁当下げて見物に来たそうである。その頃漢文の書籍があるのは両班階級の所だけであろうと思ったのは、後年の事である。私たちは「父の神童自慢」が始まったと思って、聞き流していた。「十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの人」を地で言ったようなものだと思っていた。

 父は幼い時、柔道の稽古をしていて脱臼してしまったようだが、あまり痛いと言わず、そのままにしていたら、左足が不自由になってしまったようだ。移動の手段としては杖を用いていたが、その後自転車やその頃は単車とか言っていたかな、原付バイクなどを乗り回していた。軽自動車にも乗っていたが、運転が危なかったので、いつしか原付バイクが主流になったかな。

 仏教の教えでは、やはり「輪廻転生」はよく言っていたように思う。生きている間に良いことをしないと、死後に地獄や畜生に生まれ変わるぞと言われた。食べ物で好き嫌いを言っていると、「餓鬼界」に落ちるぞとも言われた。法事でご馳走を頂くことがあるが、たまに髪の毛や虫が入っていることもある。言えば相手に落ち度があったことを指摘することになるので、そのまま食べることになる。それが当たり前であるという。私は不潔なものは苦手だったので、虫を食べるなどは出来ないと思ったが、相手の落ち度を指摘しない考えには、少し共感した憶えがある。他人はもとより、家族が口をつけた物でも食べなかった私は反省はするが、嫌悪感の方が先に立ち、なかなか食べられなかった。

 父は四字熟語や「漢籍」の一節を引用するのが好きだった。「孔孟の思想」や「老荘の思想」が多かったが、やはり「論語」の一節が多かったようだ。後に改めて「論語」を読んだ時、知っていることが多かった。「志学、而立、不惑、知命」は人生の目標として、随分と気になったものである。特に「志学」の15歳と、「而立」の30歳は意識した。「嚢中の錐」だったかな、10年も勉強して、ものにできないようでは、たかが知れている。将棋の相手をさせる為であろうが、「宿題と親孝行はどちらが大事か」と怒鳴られたこともある。その後米長邦雄永世棋聖の本を読んだ時、母親が机に向かって勉強している時は、家の手伝いを頼まなかったそうである。昔は家事労働と学校の勉強では、家事労働の方が大変であった。兄は家事労働ばかりさせられて、中学を卒業して家を出た時は、寂しさよりは嬉しい気持ちの方がずっと勝っていたそうである。姉は暗い中で本を読んで、早くから眼鏡をかけることになった。私は将棋の相手をするだけで、家事の手伝いはあまりしなかったので、不器用になった。不器用だから任せられなかったのかもしれない。

 「忠孝」に関してはよく言われた。「男が涙を流していいのは、親が亡くなった時と主君が亡くなった時だけだ」とも言われた。今私は涙もろくなり、TVを見てはよく泣いている。しかし父が亡くなった時は涙が出るか心配したほどである。涙は我慢するものというのが染みついていた。昭和天皇が崩御された時は涙が出なかった。正直楽になられたと思った。「2.26事件」時の対応、開戦時の対応、終戦時の対応など、問題はありそうではあるが、本当のことは伝わっていない。「立憲君主制」を守ろうとされたと思うが、もう少し「天皇の御意思」を明らかにされた方が、周囲は動きやすかったのではなかろうか。

 「君子」という者は、単に徳の高い立派な人という意味ではなく、政治を任せられるだけの人という意味があったようだ。「聖人君子」が政治を行うべきという考えがあったようである。私の小学校卒業時の「将来の夢」は「政治家及び実業家」であった。家が貧しかったので、実業家になって金持ちになりたいという夢があった。政治家になるための資金集めという要素もあった。高校卒業直前には仏教系の大学も勧められたが、それまでは東大法学部や早稲田の政経学部を勧められた。どちらかと言うと理系の頭だったと思うのだが、理系は医者ぐらいで、理工学部には興味を示さなかった。後でわかったが、祖父は医者だったというのは、長く信じていた。父は法螺は吹いても噓はあまり言わなかったので、信じていたが、北京に行ったらしいが、そこでは医者の真似事をしていたのかもしれない。父の一番下の弟は北京生まれで、戦後は台湾に渡って実業家になったという話であった。父にとっては最後の砦みたいなものであったのであろうか、仏教というのが。今から思うと差別意識は強い方だったように思う。二番目の姉が息子を産んで、父の所に顔を見せに来たことがある。嬉しそうではあったが格別という感じではなかった。ポツリと漏らした言葉が「外孫」だからであった。姉妹は数の中に入っていなかった。兄弟は4人で、これははっきり言っていたが、女の数は4,5人であった。父の中でもはっきりとはわからなかったのであろう。