12日は父の月命日である。誕生日は3月10日で祥月命日は9月12日である。東日本大震災の翌日で生まれて、「9.11」の翌日に亡くなった形になっているが、もちろんいずれもずっと前の年である。明治生まれの父は125歳まで生きるとか言っていたが、満年齢の73歳で亡くなった。73年と半年と2日の生涯であった。死因は急性心不全とされたが、糖尿病を長く患っていて糖尿病昏睡と言うのかな、町中で倒れて救急車で病院に運ばれて、そのまま亡くなったそうである。「父危篤」の知らせが入ったのは9月12日の事であったが、池袋に住んでいたが、飛行機で帰ろうにも、生憎の天気で飛行機が飛ばないとのことだった。姉も東京在住で、姉の所に行って、一晩過ごした。父の遺体はどういう訳か、離婚した私の母の所に移されていた。翌日の13日に姉とともに帰郷した。葬儀は母の所で執り行うことになった。喪主は私になった。父にとっては私が長男だったからである。結局葬儀は9月14日になった。考えてみれば、父の葬式の参列者が最も多かったかな。時代の流れか、最近は葬儀の簡素化の為に家族葬などが多いので、参列をお断りすることが多い。母の時は4人だけだった。義兄は海に散骨したので、私は出席しなかった。コロナ下だったので、葬儀も簡単なものになり、火葬場には4,5人しかいなかった。重ならないようにしていたようだった。義姉の時はもっと少なく、コロナに罹っていた姉は参列できず、兄と二人だけで、通夜から葬儀、火葬まで済ませた。

 父の時は昭和の時代だから、近所の方も大勢やってきて、焼香してもらった。驚いたのは、池袋で同じアパートに住んでいる友人の父上が参列されたことだった。友人が代わりにと頼んでくれたのであろう。あまり憶えていないが友人たちも何人か参列してくれたようである。涙は出なかったが、さすがに棺の蓋に石で釘を打ち付ける時は、涙が出て、その後は止まらなかった。急にこれで最後なんだという思いが溢れ出た感じであった。48年前である。来年が50回忌になる。母の7回忌もあるので、それまでは元気でいたいと思っている。生きる意味と言ったら、今ではそれぐらいしか思いつかない。

 前年には、父の娘である2番目の姉が、乳癌で34歳の若さで亡くなった。記憶に残っているのは、父の涙を見たのはこの時ぐらいである。この時の葬儀は割と盛大であった。夫の地元で、夫の兄弟姉妹は多かったので、参列者も多かった。私にとって身内の死は初めてのことだった。亡くなる10日前ぐらいから、見舞と付き添いを兼ねて、姉の嫁ぎ先である京都に来ていた。甥は小学5年生、姪は来年に小学校に上がる年齢であった。少し早かったがランドセルなどを買ってあげて、ランドセル姿を姉に見せていたようだった。まだ母の死を受け止めれない姪は大勢の親類縁者に囲まれて、むしろ嬉しそうにさえ見えた。甥の方はもう母の死を理解しているので、悲しそうであった。近くに一番上の姉の家もあったので、姉の血縁の人々はこちらに集まっていた。2部屋か3部屋程度の小さな借家である。10人近く集まっていたであろうか、その頃夜間の大学生であった私はほとんど大学には通っていないような状況であった。しかし見渡してみると大学卒や大学生は私以外はいなかった。夜間ではあるが、ともかく大学を卒業しようと強く思った。道はそこから開けるかもと思った。大学よりもアルバイトが主体の生活になっていた私は、どうやったら大学を卒業できるようになるだろうかと考えた。定期的な収入は奨学金の9000円しかない。バイトで生活費と学費を稼ぎ出すしかないが、他に方法は無いかと考えた。結局は母と姉に頼ることになった。家賃は9000円だったので奨学金でまかなえる。生活費と来年の学費をどうするかであった。4年生次は特待生になり、学費免除になったが、その頃はそんな制度があることも知らなかった。母に仕送りの相談をすることになった。来年から仕送りするならば、いくら仕送りできるか尋ねた。月2万円ならば、何とかしたいと言ってきた。月29000円ならば、家賃と生活費は何とかなっても、学費は何ともならないな。バイトは不可欠だなと考えた。助け舟を出してくれたのは、姉だった。母から聞いたのか月1万円の仕送りをしてくれるようになった。ギリギリだが月39000円あれば、バイトをしなくても通学できるなと考えた。2年生だった私はほとんど通学していなかったので、もうすでに単位取得の見込みがない科目がかなりあった。そこで単位取得の可能性がある科目は、全部優を取るつもりで大学に通った。体育と語学はすべて見込みなしであった。一般教養でも出席用紙を配る教授もいたので、その科目は諦めた。バイトは3年になるまでは続けようと思っていた。2階建てアパートの2階の奥に住んでいた私の真下に、大家さんの息子さんが住んでいた。家賃の取り立ては緩く、家賃の滞納者は多かったように思う。そこで家賃を滞納して、奨学金を来年の学費の為に貯金しようと思った。2年になった時、事務職員に来年は奨学金を打ち切られるかもしれませんよと警告を受けていた。1年次も大半の科目を落としていたので仕方がないことだった。しかし夜間の学生だったので、そのあたりは緩かったかもしれない。2年次は私の予想以上に単位が取れた。無事奨学金も継続された。

 3年になって、仕送りをしてもらうようになったので、毎日大学には通う。オール優を狙う。自宅の勉強時間は最低でも8時間はする。バイトしないために仕送りをしてもらってるのだから、バイトをしない時間分は勉強時間に充てようと思った。ほぼ実行できたように思う。自分の一生の内最も机に向かっていたのはあの時期であろう。仕事時間はもっと長い時もあったが、自宅での勉強時間が最も長かったのは、大学3年生の時であろう。オール優は1科目だけ良を取ってしまい、逃してしまったが体育や語学も単位取得して無事4年生になることが出来た。付録で特待生になり、学費免除になったのは想定外で嬉しかった。

 この年に父は亡くなった。昭和51年の事である。この頃から人生を25年区切りで、序盤中盤終盤と考えるようになった。偉大な仕事をした人は晩年10年でやっているなと思い付いた。人生の序盤中盤は終盤の為の準備期間と考えた方がよいなと考えるようになった。少し気が楽になる思いであった。