「修学旅行の思い出」としながら前回は、最後は「海外修学旅行」になってしまった。高校時代の思い出で最近の若者はおそらく修学旅行よりは「体育祭」や「文化祭」を上げる人が多くなったのではないかな。しかし高校3年間最大の思い出としては、「修学旅行」をトップに上げる人は、今でも多いのではないかなと思う。まして「海外修学旅行」ともなれば尚更だろうと思う。

 私は学校を退職するまでは、海外旅行は修学旅行の引率か下見だけであった。引率が韓国、北京、オーストラリアが各1回である。下見は北京とニュージーランドである。40代で5回である。2001年は「9.11」のせいで、海外は中止になった。お陰で出来たばかりだったと思うが「デイズニーシー」に行った。最初で最後の機会になった。

 55歳で早期退職した。今ならば「介護離職」ということになろうが、その頃はあまりそんなことは言わなかった。まだ動けるうちにと、母の思い出の土地大連に連れて行きたいと思ったが、飛行機に乗るのが嫌だと言って、大連行は拒否された。仕方なくフェリーで行くことが出来る釜山に、姉と3人で7泊8日の海外旅行に出かけた。私費で行く最初の海外旅行である。もう17年前になる。釜山港に着いてフェリーから岸に渡るのに、高所恐怖症の母は渡ることが出来ず、結構重かった母を私は抱えることが出来ず、思案に暮れた。ところが現地の乗組員であろうか、屈強な青年が母を背負って渡してくれた。結局母にとって最後の海外旅行になった。ハワイまで行ったことがあるので、飛行機も船も駄目だとは知らなかった。大連に行った時も、大連から引き揚げた時も、必死で夢中だったのであろう。自ら進んで飛行機や船に乗りたいとは思っていなかったのであろう。

 釜山は滞在型の旅行で、同じホテルに7泊した。海雲台だったので、近くの観光地に出かけたりした。以前にも記したが、海雲台駅で80代の韓国のお婆さんに話しかけられた。大阪に住んでいた方で、同じ年頃の母に日本語で話しかけたきた。日本では「長幼の序」は死語になりかけているが、まだその頃の韓国では「死語」ではなさそうで、母と一緒にいると随分と親切にしてもらった。ホテルの近くのお寿司屋さんに出かけたが、大将は日本人だったが、社長は韓国人だった。大将は福岡の人で、聞いてみると私たちが住んでいる近所であった。サービスしてくれた。まだこの頃は母も食欲旺盛であった。

 あと思い出に残っているのは、「釜山国際映画祭」の事であろうか。TV番組で見ていたが、すぐ近くであっているのかと思うと奇妙に感じられた。あと印象深かったのは、歩行者道路の悪さであった。母は日本から、買い物かご付きの手押し車を持ってきていた。疲れたら腰を掛けることも出来るやつである。現地の人に質問を受けたな。便利だと思われたのであろう。母はその手押し車を押して歩いていくのだが、歩道は歩きにくかった。車道に出て歩いたりしていた。「もう少し舗装してくれたらいいのにね」と話し合ったりした。TVの歌番組であるガールズグループを見て、半分ぐらいは日本だったらソロデビューできるのではないかと言っていたが、それが後に「少女時代」と知って驚いた。日本語字幕などつかないので、ドラマは見ても面白くなかったので、歌番組やバラエティー番組を見たりしていた。ペ・ヨンジュンのファンである母はペ・ヨンジュンの似顔絵が入っている靴下やカップを買ったりしていた。今でもその時の品は残されている。

 帰りは下が見えなかったので、騒動にならず、無事帰国できた。(つづく)