自分自身の修学旅行は、小学校の時は雲仙・長崎への1泊旅行だった。乗り物酔いをする私は、気分の悪い思いしながら、ほとんど何も憶えていない。写真を見て当時の事を少し思い出すが、酷い乗り物酔いの記憶も甦り、嫌な思い出でしかない。

 中学校は3泊4日の南九州一周旅行である。これも乗り物酔いの思い出の方が強い。日南海岸で初めて太平洋の水平線を見たのが、唯一の思い出かな。高校は5泊6日が4泊5日になったのではなかったのかな。関西の寺社仏閣を見て回って、その後東京まで足を延ばした。東京では小学校時代の友だちが、東京に引っ越したので久しぶりに会った。電車を乗り間違えて、友の自宅に行くことになり、将棋を指した憶えがある。東京は二度目であった。

 修学旅行というと、高校教師時代の引率であろう。最初は信州への研修旅行がメインだったが、クラスの生徒が飲酒したことが見つかり、その対応に追われたのが、嫌な思い出であった。旅行後も停学になった生徒の家庭訪問やらで、忙しかった思い出がある。二度目からはスキー研修になったので、正直楽だった。移動がないので、繰り返しになるので、夜間の見回りぐらいが大変だったが、それも昼間の疲れからか、生徒はぐっすり寝ているようだった。

 4度目からは海外修学旅行であった。海外旅行は自分自身初めてだったので、大変だった思い出がある。韓国旅行だったので韓国語の簡単な勉強や、韓国の文化や歴史を事前学習で学んだりした。初めて金浦空港に着いた時は、あの赤軍が降り立った空港かと思ったものである。往きは飛行機でソウルに行き、帰りは釜山港から船に乗って帰った。今だったら「セウォル号沈没事故」を思い出すだろうが、ソウル五輪後であったので、あまり事故の心配はしなかった。印象に残ったのは「ロッテワールド」で解散して、担任団はバラバラに見回りしていたが、若い先生が、韓国人の中年男性に絡まれたことだったであろうか。「日帝時代云々」と言って、文句をつけてたらしい。現場を見たわけではないので、よくわからないが、かなりの口調だったようだ。「怖かった」が感想であった。平成3年1991年の事だったかな。「漢江の奇跡」が言われていた頃だった。

 5度目は北京に変更になっていた。そのため前年に下見に行っていた。校長に同行していたので、美人の通訳ガイドが付いていた。北京市内の中学校(高校相当)と交流することになっていた。その時に見た交流会はそれなりに印象的だった。こちらは「いつでも夢を」という日本語の歌と、題名は忘れたが現地の歌をうたっただけだった。やはり「万里の長城」は印象的だった。「紫禁城」も印象に残る広さだった。しかし生徒たちは、食事に戸惑ったようだ。ある有名なホテルで昼食を取ったのだが、カエルの肉が入っているというデマが飛んで、テーブルによっては全く手を付けていないテーブルもあった。男子生徒のテーブルは大体食べていたが、女子のテーブルはかなり残っていた。帰国してから聞いたが、一杯お菓子を日本から持って行ったと聞いた。自分は平気でも、みんなが食べないのに自分だけ食べるわけにはいかなかったそうである。往きはチャーター機が全員は乗れないということで、2クラスが大連経由の定期便に乗って北京に向かった。大連空港に着いたのは夜中だったが、母の新婚先かと思った。いつか連れてこようと思ったが、実現しなかった。

 6度目は学校を異動になったので、修学旅行先は英語圏のオーストラリアになっていた。色々印象に残っているが、一番印象的だったのは、アメリカにも留学経験がある英語の先生が、英語で話すことにビビってしまったことである。オーストラリアの英語の発音が聞き取れなかったようである。先頭を歩いていたのにいつの間にか後ろに下がっていた。担任でもないのに引率段に選ばれたのは、英会話の為だったはずだが、役に立たないねえと笑いあった。学年主任は地理の先生だったが、果敢に英語で会話していた。改めて英会話は度胸だなと思った。翌年がシドニー五輪だったので、競技場にも行ったが、驚いたのはトイレの便器の高さである。身長が低く、足も短いとは言え一応大人である。大人用の小便器で用を足したが、子ども用で十分であった。北京の公衆便所も驚いたが、シドニーのトイレでも驚いた。外国人が日本のトイレで驚いているのは、気持ちがわかる。

 7度目はまたもや異動になったので、同じ英語圏でもニュージーランドであった。2000年に下見に行った。校長と学年主任と私の3人で行ったが、一番印象的だったのは盗難に有ったことである。ガイドの案内である公園でちょっと車から降りて散歩した。隣には若いカップルが車を止めていた。数分のことだったが3人とも被害にあった。ガイドは急発進して、追いかけたが車は見つからなかった。保険の話は出発前に出ていたが、私は入っていなかった。校長は入っていた。まあ自己責任だな。

 翌年が本番だったが、例の「9.11」が起きた。当初は行く予定で、準備を進めたが、最後のカバン検査をしている時に中止の連絡が入った。「テロには屈しない」と言っていたが、「生徒の安全が第一」ということで、海外旅行は中止になった。代替案はスキー研修かデイズニシーかになったが、結局両方になった。スキーをやって、デイズニシーにも行くという事になった。海外旅行のつもりで積み立てていたので、予算の方は大丈夫だったようである。私の最後の修学旅行の引率であった。