政権交代には「禅譲」「世襲」「革命」があると、以前書いた。「禅譲」を装って「簒奪」というのがあるとも書いた。悪逆非道の天子は有徳の君子が武力によって倒してもいいとされた。「易姓革命」である。姓が易わるわけだから、大勢の血が流れる。「放伐」とも言われるが、武力による政権交代なので「大義名分」が必要である。各王朝の最後の天子は、必要以上に悪逆非道ぶりが喧伝される。「世襲」にも問題点が多い。誰が次の天子にふさわしいかとなると、臣下の者たちがそれぞれに皇子を担いで、正当化する。一応長子相続が決まりの事が多いが、それを破りがちである。母親はみな平等に子どもたちを愛するというのは、美しい誤解である。先日大河ドラマのアンコール放送で「独眼竜政宗」の第4話まで見た。武家の習いで子弟の教育は母親から引き離されることが多い。特に長男は後継ぎということで、帝王教育を施される。乳母から傅役、それから学問の師匠と次々と、言わば他人から育てられるのである。母親は時として会うこともままならぬ状態になる。「独眼竜政宗」でも「春日局」でも次男が母親の側で育てられることになる。「世襲」でもそんなにすんなりとは決まらないのである。明治になり、帝国憲法が発布され、「貴族院」と「衆議院」という二院制が日本でも採用された。選挙も導入された。「制限選挙」であったが、学校では無条件に悪いこととされた。女性に参政権を認めなかったからである。男性でも納税額によって、選挙権を与えなかったからである。今でも納税額や収入の多寡で区別をしている。選挙権は18歳以上の男女に無制限に認められている。ほんの一部の人は選挙権を剝奪されているが、ほぼ無制限と言っていい。90歳を超えて半身不随の認知症の母にも投票用紙は送られてきていた。事実上投票の意思決定を出来ないので、投票用紙を使うことは無かったが、悪用することを考える輩がいるのではないかと想像していた。私の少年時代は生活保護家庭であった。その頃は消費税は無かったので、税金を納めることはほぼなかった。しかし父母には投票用紙は送られてきていた。戦前だったら選挙権がなかったであろう。国民の三大義務として教えられていたのは、「納税の義務」「兵役の義務」「教育の義務」の三つである。税金を納めない国民には選挙権は与えられなかった。兵役に就かない婦女子には選挙権が与えられなかった。明治や大正の頃は全員が学校教育を受けられたわけではない。未就学児童の存在は割と知られていた。「おしん」でも子守りの為に学校にいけない場面が描かれていた。当初は尋常小学校は4年生であった。しかし当時の先進国の中では高い就学率を誇っていた。普通の親は子どもに学校だけは行かせたがっていた。教育を受けていないと差別されることも多かった。今ではほとんどなくなった「夜間中学」では、文字の読み書きを出来ない大人に、読み書きを教えるところも多かった。「識字学級」とか呼ばれていたかな。

 よく言われることだが、「日本は与えられた民主主義だから駄目だ、自分の手で獲得しないと本当の民主主義は根付かない」と。フランス革命でも想起しているのだろうか。それとも共産革命でも想起しているのだろうか。人殺しの上で成立するのが、民主主義なのか。確かにどこもかしこも民主主義を守るためとか言って、世界中で互いに殺し合っている。選挙の不正も随分と叫ばれている。公明正大な選挙は難しい。制限を色々加えるべきだと思うが、なかなか議論されない。例えば投票率である。有権者の3分の2以上が無いとその選挙は無効にしてもいいと思う。費用が掛かるのは仕方がない。有権者には投票を義務付ければいい。棄権を3回すれば選挙権を剝奪するか、5年間の停止とかすれば良い。

 私の家は生活保護家庭だったので貧乏だった。貧乏人に力を貸してくれたのは、創価学会と共産党と、地域の自民党議員である。家まで来て、力になってくれたのは、学会員と共産党員で、自民党議員へは菓子折りを持ってお願いに行かないといけなかった。「聖教新聞」や「赤旗日曜版」などを期間限定で購読していた。一般新聞は購読していなかったのに、たぶんお礼の意味があったのであろう。教員になってからは、投票依頼を受けることも多かったが、生返事で過ごした。40代になって「新高教組」に入ることになった。信頼している教師に「新高教組」の方が多かったせいである。組合員になっても投票の強制はなかった。自分の事を若い時は「心情右翼、思想は左翼」と称していたけれど、この頃は「自分は保守である」と自覚していた。

 「民主主義はあくまでも次善の策である」と思っている。釈尊も孔子も我が子への愛は隠さなかった。「自由・平等・博愛」はなかなか実現が難しい。理想の社会に近づくには「立憲君主制」が望ましいと思っている。「完全な法治国家」よりも「やや不平等な徳治国家」が理想に近づくのではなかろうか。度々書いているが、日本の歴史を振り返れば、「天皇制」になったのは1500年程度である。それ以前の東日本は大和朝廷の支配下にはなかったものと思われる。中央集権国家を形成する上には、天皇制は有効だったのであろう。そして「権威は天皇に、権力は時の権力者に」がうまくいくコツだったように思う。「天皇親政」はあまりろくなことにならないのは、近代でも示されたと思う。政治権力は選挙で選ばれた国会議員が持つべきであろう。国会議員に責任を持つのは有権者である。しばらくの間は有権者には制限を設けてもいいと思う。暴力団員等に選挙権を与えていいのか。超高齢者で、認知症と思われる人からは、選挙権の停止を求めてもいいのだろう。参議院のあり方や、選挙区の問題も本当に普段からよく考えることになるのではなかろうか。今私が迷っているのは、「納税の義務」が国民の資格の重大な要素であるならば、納税免除者には選挙権を与えていいものかどうかである。「選挙権」というものが、それほど大切なものと認識されるようにしないと、平気で棄権したり、適当な投票を繰り返す選挙民が後を絶たない。高校生の頃は、東京や大阪などの大都市の投票行動に大いに疑問を持ったものである。「バカじゃないの」と正直思ったものである。都知事や府知事の選挙に随分と無責任さを感じたものである。告示から投票までの時間の短さもあるのだろうか。事前の選挙運動の禁止もおかしなものと感じていた。スポーツの世界では公式戦の直前しか練習してはならないとかは、笑止千万である。政治家として次の選挙に立つとなれば、数年前から準備していい筈である。「世襲」のいい所は、極端に言うと生まれた時からその準備が始まるのである。現在の「世襲議員」の悪いところは「世襲する覚悟」が出来ていないところである。しかし現在では親の後を継ぐというのは、なかなか決心がつかないものである。「新民法」の欠点でもある「相続の平等」にあると思う。今の相続の法律では、およそ三代で国の所有物になってしまう。税金の二重取り、三重取り、酷い場合は死んでも税金を取り立てる。国を守るという気持ちより、国を恨む気持ちが強くなっていく。法の網をくぐって、国を利用をしようという気持ちが強くなるのではないだろうか。「節税から脱税への道」に進ませないためにも、納得のいく課税と納税を明らかにすべきである。現在の「裏金問題」も市民感覚だと課税すべきなのに、課税されていないことが問題の本質ではなかろうか。政治家の感覚では、非課税が当然なのであろう。納税後のお金の使い道にあれこれ言われたくないだろうが、非課税ならばきちんと検証できるようにしておけよである。