東野圭吾原作を福田靖の脚本で映画化した作品である。「容疑者Xの献身」とほぼ同じスタッフで制作されたのであろう。ドラマ「ガリレオ」の第1弾のメンバーによるものである。福山雅治の湯川は教授となり、柴咲コウは所轄の刑事のようだ。北村一輝は警視庁の係長なのかな?出世していた。

 ドラマは2017年8月のお祭りのシーンで始まる。女子高生の並木佐織が歌う「Jupiter」で始まる。その後「Jupiter」は度々劇中に流れる。並木佐織はその後行方不明になり、2022年6月焼死体で発見される。火災の前に既に殺されており、容疑者として蓮沼寛一が浮かび上がるが、8年前にも本橋優奈ちゃん殺しで裁判を受けたが、完全黙秘を貫いて無罪を勝ち取る。刑事補償金と裁判費用合わせて1000万円以上をせしめていた。優菜ちゃんの母親は自殺をしてしまい、事件は担当刑事であった草薙に大きい傷を負わせた。そして今回は並木佐織殺害の容疑で逮捕されて、草薙の前に立つが、今回は不起訴になる。処分保留ということだ。

 詳細は映画を見てほしい。この映画を見て強く思ったのは、冤罪事件には大騒ぎする癖に、未解決事件にはあまり関心を払わないマスコミの体質である。劇中にも品の悪い記者が出ていたが、なんか事件と関係あるのかなと思ったら、関係なかった。つまりマスコミの品のなさを見せるためだったのかと思った。

 1件の冤罪事件の影に、多くの未解決事件が埋もれている。現在は殺人事件の冤罪よりも性犯罪の冤罪が多いようだ。昭和20年代や30年代に起きた殺人事件で、自白が取れた場合は有罪に持って行くためにかなり無理して証拠集めをした形跡がある。

 冤罪事件でよく言われるのが、再審請求が認められたらすぐに無実の報道になることである。無実を立証するのは難しいのである。裁判で明らかになるのは、有罪の立証の有無である。有罪が立証できない場合は無罪になるのである。無実を立証したわけではない。映画ではあまり描かれなかったが、優菜ちゃん殺しで無罪を勝ち取った蓮沼は半ば英雄扱いで、警察は袋叩きであったろう。検察も汚点になって、並木佐織殺人事件で蓮沼を処分保留にして釈放したのであろう。起訴したら有罪率が90%以上というのはやはりおかしい。検察官が裁判官になってしまっている。最近はようやく検察官や裁判官の公務員化が問題視されるようになったが、司法試験を優しくして、合格率を上げても、質が問題になったりする。金が万能と思われる世の中になると、民間の人気弁護士が高給取りになったりする。検察官上がりの弁護士や、裁判官上がりの弁護士も増えた。昔よりも長生きするようになったので、お金が必要になったのである。退職金と年金では生活していけないのであろう。昔と違ってお金を必要とすることが増えたのかもしれない。私も早期退職して収入が無くなったのに、支出は意外にもかなり高額だったことを記憶している。漠然と75歳までの人生を描いていたので、かなり使えるお金があると思っていたら、リーマンショックで投資信託で大損してしまった。悠々自適の優雅な生活には程遠いものになってしまった。

 話を並木佐織殺人事件に戻す。並木佐織は「なみきや」の長女である。現在は菊野市に住む湯川教授の行きつけの店である。「なみきや」の人々が無実であってほしいと思うが、湯川の推理は、「なみきや」の関係者の関連を証明するものになっていく。最終的には蓮沼が犯人だったわけだが、誰が蓮沼を殺したかになってしまった。優菜ちゃん事件の自殺した母親の異父兄も出てきて、必要以上に事件を複雑にしているが、要するに冤罪事件ではなかったということである。こういうことを言うとお𠮟りを受けると思うが、冤罪事件の全てが「犯人は無実である」とは限らないのではなかろうか。「虎に翼」でも、母親の親権を奪い、祖父母に親権を与える事件で、弁護士の寅子は勝訴した。しかし二人の子の父親は亡くなった夫の子ではなかった。祖父母の訴えが正しかったのである。しかし、今後の事を考えると、祖父母は敗訴して良かったのかもしれない。幸不幸は真実とは関係無い。おそらく子どもたちは実父と養子縁組をして、経済的にも裕福に暮らすであろうから、めでたしめでたしなのであろう。「法は人を守れるのか」という問題だが、「沈黙のパレード」でも、並木佐織も本橋優菜も守れなかった。

 「虎に翼」の今後の展開に関心を持っている。私は旧民法も良くないところもあったであろうが、「新民法」は憲法と並んで、「日本の国体」を破壊したのではないかと考えている。手を貸したと言うより積極的に利用したのが、「日本教職員組合」の方々や日本社会党や日本共産党の方々と思っている。昭和20年代や30年代、40年代前半で学校教育を受けた児童は少なからず影響を受けたものと考えられる。その時の教育の弊害が子や孫に伝わったようである。今後どのように変わっていくのか興味深いが、非常に心配である。「沈黙のパレード」の結末は「容疑者Xの献身」よりは、希望の持てるものになっているようだ。日本は「法治国家」ではなかった。儒教で言うところの「徳治主義」を目指したのである。強烈な「連座制」や罪によっては厳罰と思われるような裁きで、治安を保っていたところもあった。江戸時代の治安が、おそらく文明国では世界最高であったろうと思われる。それが江戸時代が終わって150年以上経っているが、まだその一部が感じられるようだ。単純に「昔がよかった」と言わないが、時代が違うとか、新しさに取り残されるとか、世界の潮流に乗り遅れるとか言わないで、じっくりと検証してみようではないか。今生きている人が幸せならば、100年後の人々が不幸であったり、滅亡したりしていて構わないというのであれば、また別問題である。「個人の最大幸福を追求する権利」は認めない立場である。