大和朝廷の東征は実際はどうであったかよく分からない。後に安倍氏や奥州藤原氏が栄えることになるが、2000年前以上は小さな村落共同体みたいなものばかりで、武器も狩猟用の弓矢ぐらいしかなかったのではないかな。数多の戦闘で武力を向上させていた西の大和朝廷はある程度支配下に置いたものであろう。しかし完全に掌握はしていなかったのではなかろうか。東日本は今で言うところの「専守防衛」だったのであろう。それと「一所懸命」になるのは鎌倉時代以降の事で、広い東北の地をあちこちさまよったのではないだろうか。比較的温暖な地であった東北も、次第に寒冷の地になっていったのではなかろうか。西日本の人間からしたら利用価値のあまりない地域に思われていたのではなかろうか。

 TV番組を見ていたら、古墳の数はいくつかとクイズになっていた。日本全国で約16万基だそうである。コンビニより多いと言っていた。古墳時代は比較的短いので、そんなに古墳に埋葬される人間がいたのであろうかと、疑問に思った。古墳時代に作られたものではなく、後に似せて作られたものも多かったのではないかと思った。古墳時代の人々のDNAは現代人に近く、朝鮮半島や大陸にも類似したDNAを持つ人間がいたと、NHKの番組では言っていた。ただサンプル数が少なく、信憑性には欠けると思った。

 しかしともかくも奈良時代には国家意識が出て来たものと思われる。朝鮮半島や大陸からの攻撃を想定して、北九州を中心に防御のラインを敷いていた模様である。「防人」という言わば「徴兵制度」を設けたようであるし、本気の国防であったようである。仏教は既に日本に入ってきていたが、「鎮護国家」のための仏教という色が濃くなったようである。「遣隋使派遣」や「遣唐使派遣」で国力の差を思い知ったのであろう。しかし元来大陸内部の中原の地を治めるのが、戦争の理由なので、海を渡っての遠征はなかったようである。海賊みたいな集団が海岸周辺を荒らしまわったりしたが、内陸まで攻め込んだりはしなかったようである。海が国防の要だったのである。要塞代わりになったのである。奈良時代から平安時代になり、貴族文化が発達するが、大陸文化の影響を受けていたようである。10世紀辺りから国風文化が云々されるが、西日本は大陸や半島からの影響を受けやすく、意識的に唐風文化を取り入れたこともあって、和風の発祥とは思いにくい時代が続いたのではなかろうか。平将門が「新王」を自称したように東日本では西日本とは異なった価値観が続いていたものと思われる。源平の闘争が起きて、藤原氏を頂点とする貴族勢力が衰退したが、鎌倉時代は、庶民からすると二重徴税のような仕組みではなかったろうか。貴族からも武士からも税を取り立てられる。そして「泣く子と地頭には勝てぬ」ということになっていく。武力を背景に持つ武士が台頭するわけである。「兵農分離」を図るのは豊臣秀吉まで待たないといけない。この頃は「兵農一致」である。土地持ちの農民は、武器を持ち、何かあれば実力行使をするようになる。後に「国衆」と呼ばれる人々の成立である。鎌倉室町時代の武士の政権が貴族を圧倒した頃には、自分の土地は自分の力で守るという意識が強くなったのであろう。農耕の発達で主要作物の稲作も発達した。米の確保はその土地で暮らす人々にとっては、死活問題である。様々な方法で土地を守ってくれるのが、立派な領主となっていったのであろう。領地領民という考えが生まれたのかもしれない。ヨーロッパでもそうであったが、政略結婚と後に呼ばれる方法で、平和を保つようになるのである。大河ドラマでも描かれたが、平将門などは「略奪婚」だったのである。事後に問題を多く残す「略奪婚」は今で言うところの「恋愛結婚」である。争いを生む元である。今思うと私は何故「恋愛結婚至上主義」だったのであろうと考える。戦後民主主義教育の影響であったのだろうか。

 室町時代の後期は戦国時代である。歴史の表舞台に多くの人々が顔を出し始める。「下剋上」の時代である。「幸せな時代」であったのであろうか。農民の子であった秀吉が関白までに上り詰めるのである。自由競争の時代でもあるのだ。農業だけでなく商工業が発達したのもこの時代であった。流通量も多くなり、「種子島」が東北まで伝わるのにそんなに時間がかかっていない。たった2挺の「種子島」が瞬く間に大量生産されて、全国に流通するわけである。「必要は発明の母」である。商工業の目覚しい発達も、戦争のお陰である。第一次世界大戦の映像を見たことがあるが、戦争に飛行機が有効と分かると、飛行機が改良されて瞬く間に大量生産される。戦車が友好だとわかると、これまた改良されて大量生産される。化学兵器も有効だとわかったので大量生産されたが、使い方が難しかったようである。

 さて日本の戦国時代はヨーロッパでは大航海時代になって、そして帝国主義時代になっていく。白人は際限なくその欲望を広げていった。侵略に侵略を重ねていったのである。有色人種でも草原の覇者となったモンゴル民族は遠くヨーロッパまで進出していった。ロシアもその支配下に置いたのである。白人だけが野蛮なわけではない。有色人種も野蛮なわけである。まあ人間はそもそも野蛮に造られているのかもしれない。しかし世界をこのようにかき回したのは白人種である。南北アメリカも平和に暮らしていたわけである。そこに伝染病を持ち込み、弱ったところを暴力で支配したのはキリスト教徒の白人種である。本当によくよく反省しなければならない。謝罪と賠償を今からでも遅くないので、AAAに対して行うべきであろう。

 戦国時代は秀吉家康のお陰で終息した。やはり徳川家康は途中に難があるが、最後に築き上げたものには、称賛すべきものがある。しかし抑圧のシステムも作ったのである。当時としては軍事力は世界最高水準に近かったであろう。強大な軍事力を背景に初期は武断政治を行った。他家の軍事力を削ったのである。「参勤交代」はなかなかのアイデアだった。大名の経済力を削ぐとともに、商人の活躍する舞台を整えることになった。江戸や上方の文化が地方に伝播していった。地方の大名の幹部候補生の江戸詰めは、色々な影響を全国に及ぼしたものと思われる。識字率は世界最高水準だったことは間違いない。士農工商男女ともに読み書きが出来るのである。そんな国家はどこにもなかった。もし日本文化が世界水準で素晴らしいとするのであれば、やはり江戸時代の文化であろう。その素晴らしい日本がアメリカの恫喝外交に屈したのは、重ね重ね残念である。19世紀半ばはまだ飛行機もなく、戦車もなく、軍事力のレベルで言えば、日本を占領する力のある国家はなかったはずである。「尊王攘夷」を今では世迷いごとのように言うが、かなり正当性もあったことである。既に伝染病をもたらされて疲弊していた上に、天変地異まで起こったのだから、動揺したのは仕方がない。しかし薩英戦争でも英国海軍相手に、薩摩一藩でほぼ互角の戦いを行ったわけである。4ヶ国連合軍も下関砲台を占領したが、内陸を占領することは出来なかった。反撃が怖かったのである。陸戦では武器の違いよりも、兵士の数と士気が問題である。連合軍も馬鹿ではないので、これ以上の戦争継続は不利と判断したので、停戦に合意したのであろう。どちらも幕府が代わりに賠償金を支払うことにしたのが間違いの元であった。幕府の上層部には事態が飲み込めず、「事なかれ主義」がまだ力を持っていた。覚悟決めて事態に当たれば、不平等条約など結ぶ必要がなかったのである。日本の歴史を振り返れば、何度か異国の侵略を受けそうになったが、その都度適切に行動しているようである。こと幕末においては、何故あのようになったのであろうか。きちんと検証すべきである。幕末の下級武士は貧困ではあるが、知識と誇りは持っていた。しかし上層部の多くは、特権階級は自己保身を最優先して、「事なかれ主義」の判断を下した。ここの外交の失敗が後の日清戦争や日露戦争を引き起こし、延いては大東亜戦争を引き起こすことになったのである。マスコミがしっかりしていれば、日清戦争や日露戦争が大勝利などではなく、薄氷を踏む戦いだったことを国民は理解したであろう。マスコミは反権力のポーズは取るが、第3の権力よろしく、自分たちが正義のようなポーズを取り、世論をミスリードしていく。ミスリードしたのであれば反省しなければいけないのに、正当化してしまう。プーチン大統領も自分の行為を正当化しているではないか。戦争継続反対を唱えれば、反ゼレンスキーになってしまう。本当に戦争継続反対なのか、戦争継続賛成なのか、日本ははっきりさせないといけない。もしくは中立を決め込むかである。まあヨーロッパの戦争や宗教戦争には首を突っ込まないのが利口なのかもしれないのだが。日本の世論がそれで納得するかだな。新聞やTV局では見解が異なると思うのだが、態度表明がなされない。大別すれば三つしかないと思う。賛成、反対、中立の三つの立場である。私は中立の立場を支持する。よくわからないことが主な理由だが、プーチンは嫌い、ゼレンスキーも嫌いである。ゼレンスキー大統領にヒトラーの臭いを感じるからである。プーチンにはスターリンの臭いを感じ取るからである。