現在の民主主義の国家では、「選挙」が政権交代を起こす。ところが戦後の日本人は「選挙権」をGHQの政策の一環として、手に入れることになった。男女平等で、金持ちも貧乏人も等しく1票を与えられた。中央も地方も、住んでいる場所に関わらず、同じ1票となった。これこそ「民主主義」だと言わんばかりのキャンペーンだったようだ。明治時代においても「選挙」はあった。二院制を敷いていたので、貴族院と衆議院があり、衆議院は選挙権のある国民から選ばれて、国会議員になった。貴族院は被選挙権にかなり強い制限があった。華族が中心であった。後は高額納税者などが選ばれたようだ。要するに富裕層と呼ばれる人々である。無制限の自由と平等はこの頃はなかった。

 やはり日本がおかしくなった原因は敗戦後のGHQの占領政策が大きかったのであろう。敗戦の責任を全部戦前の日本の在り方に求めてしまった。アメリカ人だけがそう思ったのだったら、まだ良かったが、日本人自身がそう思ってしまった。そう思い込まされたところもあるが、進んで欧米の日本の国体破壊に手を貸した連中がいた。いわゆる左翼勢力と呼ばれる連中である。共産主義思想は一種の宗教だと思う。昔創価学会の勧誘を受けたことがあるが、勧誘を受けながら、何かに似ているなと思った。共産主義者の言論に似ていたのである。昔のことはともかく、未来についても、こうだと断言する。色々と理屈はあるが、最終的には「信じるか、信じないか」である。信じればよく理解できると言うことである。信じれば、次々と理解できて、智が開けていく感じがするらしい。傍から見ると「思考の停止」と思われるが、「信仰心の獲得」になる。そして信仰心を持って考え始めると、次々と見えてくる世界がある。その世界は魅力的なのである。「オウム真理教」の信者に高学歴の信者が多かったことが話題になったが、それは初期の日本共産党員に学生を中心とした高学歴の者が多かったことによく似ている。そして今も選挙の際示される立候補者の学歴では、日本共産党が最も高学歴という印象がある。同じ大学でも共産党の方が高偏差値の大学が多いように感じる。

 神道系の新興宗教を除けば、大体において宗教法人の開祖は高学歴の者が多い。遠く遣隋使や遣唐使で派遣された留学僧は、その時代で最も知識や知恵がある有能な人材だったようである。人知を超えた思考は、結局のところ「信じるか、信じないか」になってしまうのかな。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教は同じ神を信仰しているそうだ。だから互いに異教徒ではないそうである。しかし異教徒は自分とは異なる神を信じているのだから、まだ許せるそうだ。しかし同じ神を信仰しているので、異端は許せないそうだ。共産主義思想もキリスト教の異端の思想とも言えるそうである。唯一絶対神を信仰するのは私は危険だと思っている。日本の神道や日本の仏教は、多神教である。乃木神社もあれば東郷神社もある。実在した人間が神として祀られるのは菅原道真だけではないし、古代や中世の古い時代の話ではない。神社やお寺でお祈りする時は、自分だけのことではない。「家内安全」や「国家の安全」も祈りの対象である。若い時は「噓くさい」と嫌っていたが、今では割と素直に祈ることが出来ている。年を取ったのかな。

 選挙では1票でも多ければ、多い方が天下を取るのである。政権交代が起きても大きな変化はないだろうと思っているので、選挙結果は尊重される。多数派による少数派の弾圧が当たり前になったら、そもそも「選挙」は有効性を持たないであろう。ヒトラーのナチスドイツがヨーロッパを席巻したが、民主主義の手続きを経て、総統になり、恐怖の独裁政治を行ったわけである。私は最近の日本の政治を駄目にした原因の一つには、「小選挙区制と比例代表制の併用」にあると思っている。小選挙区で落選しているのに、比例代表制で復活当選を果たしている。小選挙区で駄目だと言っているのに、ゾンビのように復活してくる。選挙民も無力感に陥るだろう。調べたことは無いが、復活当選者のその後はどうであろうか。しっかり国会議員としての仕事を果たしているのであろうか。マスコミの仕事は多い筈である。それなのにくだらない番組ばかり作って、CMを垂れ流している。企業もTBSでは流すが、フジでは流さない。NHK対民放ではない。民放内での馴れ合いも自粛してほしい。選挙になれば、それこそ色々な情報が欲しいのに、何も流さない。何のための「言論の自由」なのか。「言論の自由」は民主主義政治が正しく運営されるために不可欠と考えるのに、一番肝心な時に「言論の自由」を発揮しない。横並びの報道ならば「言論の自由」は必要ない。「報道の自由」に報道しない自由もあることは承知しているが、報道しないことであることでもないことにされてしまうし、抹殺される命もある事を知ってほしい。テレビ朝日が報道しないのであれば、日本テレビが報道するとかしてほしい。視聴者は次第にどの系列の報道を信用するかがわかってくると思う。

 学校教育も良いことばかりを言わないことである。そもそも出発点は近代的な兵士養成であったことは確かである。将校は陸軍士官学校や海軍兵学校で養成するのである。日本の従来の教育の在り方とは随分と違っていたのである。寺子屋では主に「読み書き算盤」である。生活の為に必要ない者も多いが、子どもたちの将来において必要になるかもしれないということで、教えられていたようである。世界一高い識字率も寺子屋によって支えられていた。決して藩校のお陰ではない。

 民主主義教育の要は、有権者の育成と被選挙者の育成であろう。選挙権や被選挙権は大切なものであるということをあまり学校では教えない。日本のような国家では、外国語教育は優先順位が低い筈である。私の頃の公立高校の入試配点では、200点満点中の20点であった。音楽・美術・保健体育・技術家庭の4教科で60点であった。国語・数学・理科・社会の4教科で120点であった。9教科200点満点で110点取ると普通科高校に合格すると言われていた。小学区制だったので4つの中学校からその普通科高校には入学していた。「15の春を泣かせるな」と言われていたが、私の進学した普通科高校には10名近くの年上の新入生がいた。小学区制の弊害ではあったが、仕方がないことにした方がよいのかどうか、迷うところである。

 私が高校教員になった時は、中学区制で約40余りの中学校から入学してくる。偏差値による普通科高校の序列化が進んでいて、進学競争に明け暮れていた。塾に行くのは当たり前になっていたようである。私が教員になった年にドラマで「金八先生」が始まった。あまり見る暇もなかったので、あまり見なかったが、どちらかと言うと見る時は批判的に見ていたように思う。中学生の妊娠出産はあまりにも衝撃的過ぎた。武田鉄矢は「母に捧げるバラード」の長髪の歌手でしかなかった。

 中学区制の弊害を感じることが多かったので、小学区制が良かったかなとも思ったが、選択の余地があることはやはり良いことだと感じるようになった。ただし一番手の高校に対する劣等感の裏返しか、その他の高校に対する優越感は感じて見て、自分の高校時代の2組や3組の生徒の屈折した感情と似たものを感じた。入試制度も9教科200点満点から5教科200点満点に変わっていた。その代わりに内申点の比重が大きくなっていた。実技教科は内申点で考慮するということになったようだ。

 何だか「政権交代」の話からだいぶずれたようだ。近現代の学校教育は、国家の為である。国民の為ではない。それを良しとするか、否とするかで、だいぶ様相が変わってくる。ただ目前の選挙の為であってはならないということだけは言える。