どうやら最新の考古学の成果では、かなり昔から日本列島にはホモ・サピセンスが住み着いていたらしいことがわかってきた。まだ定説にはなっていないのかもしれないが、約3万年前には最初のホモ・サピエンスが到着したらしい。グレートジャーニーでアフリカを出た一部のホモ・サピエンスは東へ東へと移動してきたらしい。何故東へ移動してきたかは色々な説があるらしいが、一般的に考えられる食料を求めての旅ではないらしい。最初の頃、アフリカを出たのも食料の確保が難しくなっためと言われてきたが、どうやら当時のアフリカは緑豊かな大地であったらしい。食料を求めてというのは間違っているらしい。最近出て来たのは知的好奇心の為というのが有力になっているらしい。冒険心という説もある。東へ東へは太陽の上るところを求めてというのがあるそうだ。

 約4万年前は日本海は湖だったそうである。マンモスなどの骨が見つかるのも、大陸と陸続きだったので、動物たちも歩いてやってきたらしい。恐竜の化石もあるので、大陸の一部であったと考えるのが自然なことのようだ。4万年前にはもう既に現在の東南アジアにはホモ・サピエンスの一部がたどり着いていたらしい。さらにその一部が日本列島に渡ってきたらしい。現在の関東あたりまで来たのが約3万年前ということらしい。旧国名で言うところの常陸の国までやってきて、太平洋にぶつかり、その地に留まった者もいれば。北上した者もいたらしい。ほんの一部は海に出て行って、帰らぬ人になったらしい。この当時から関東から東北に定着した人々の事を縄文人というらしい。狩猟と採集を生業としていたらしい。漁業や栽培も発達したらしい。太陽を臨む太平洋岸に人々は長く住むようになり、定住生活とともに、村落共同体を形成していったらしい。縄文文化をどこから規定していいかわからないが1万年以上続いたようである。争いごとはほとんどなかったようである。狩猟を男性がやっていたであろうことは想像できるが、食糧は狩猟に偏っていたのではなさそうである。採集だけでなく栽培も始めたようで、こちらは女性が主に担っていたであろうことが想像できる。つまり女性は男性の狩猟の出来不出来に依存していたわけではないのである。極端に言うと男性がいなくても女性たちだけで生きていけた訳である。母系社会であった訳である。狩猟によって障碍者になった者や病人も、女性たちとともにいれば、何とか食いつなぐことが出来たのである。父親はわからなくても母親はわかっているので、母親を頼って母親の世話になるのであろう。数十人からせいぜい数百人の部落というか村というか、そのような社会が形成されたものと想像される。それが数千年前まで続いたのであろう。東日本にはそのような社会が長く続いたものと思われる。

 さて西日本だがこちらは単なる通り道ではなかった。大陸や半島や南の島から人々がやってきたのであろう。古参の人々と新参の人々は争いを起こしていたものと思われる。争いが多いとどうしても武器が発達する。武器が発達すると争いはますます激化していく。争いが多いと男性優位の社会になっていく。力仕事は昔も今も男の仕事になりがちである。西日本にも長く続いた一族もいたのかもしれないが、大体において上書きされていったのではないだろうか。そのうちに稲作が普及していった。農業は文化発祥の元とも言うが、貧富の差が出てくる元にもなってくる。富める人々が貧しき人々を助けるより、支配していく事になる。富める人々の中に強大な力を持つ人々が出てくる。私が大学時代に習った「言語学」では約3000年前の朝鮮半島南部の人々と、北九州の人々は話し言葉ではコミュニケーションが取れていたという。文法とかは異なるが語彙については共通な言葉や似た言葉が数多くあるそうである。中年以降韓国に行くことが多くなったが、釜山の喫茶店などでボーっとしていると、ここは九州かどこかわからなくなることがある。英語などと違って話声の高さが似ているのである。大学生の時フランス語の先生がスペインとフランスの国境付近の人々は、意思疎通は話し言葉で十分通用すると話していた。先生曰く「まあ方言みたいなものよ」と。日本では津軽のお婆さんと薩摩のお婆さんは話が通じないと思う。話し言葉は上書きが激しいからな。

 西日本はせいぜい約3000年の歴史であるが、東日本は1万数千年の歴史がありそうである。継承されたものが多く残されているからであろう。何故かであるが、やはり戦争の有無であろう。ヨーロッパの歴史はなかなか遡れない。戦争によって消されてしまっているからであろう。前の時代を消去して自分たちの時代を上書きしていくからではないだろうか。((つづく)