第9期叡王戦第3局は名古屋東急ホテルで開催された。前局は伊藤匠七段に嫌な負け方をした。今回は先手番なので大丈夫かなと思ったが、タイトル戦は三度目の伊藤匠七段は対藤井戦の連敗を止めて、初勝利を挙げて落ち着きを増した模様であった。すでに将棋の内容に関しては互角以上のものを示していて、後は勝つだけだったが、なかなかその初勝利が難しかった。しかし正々堂々と真正面から挑む姿は、近い将来打倒藤井の一番手になる予感がしていた。しかしまだ先だろうと思っていた。しかし過去のライバル物語を紐解くと案外連勝から連敗ということは多いのである。その後互角になるか、連勝に戻すかはそれぞれの物語である。

 叡王戦という5番勝負である。しかもタイトル戦としては最も短い持ち時間である。そして名古屋の地元対局である。藤井叡王が負ける外的要素が多かった。第2局では中盤では残り時間でも形勢でも藤井叡王が有利であった。優勢と言ってもいいぐらいであった。所が普通ならば踏み込みだろうという順に時間だけ使って、踏み込まない。自分自身でブレーキを踏んでいる感じであった。最終盤になっても、自分の方が先に1分将棋になって、読みにない局面で間違えてしまった。伊藤匠七段は最善手を指し続け、とうとう寄せ切った。藤井叡王にしては珍しい終盤での逆転負けと同時に読み負けであった。いわゆる震えた形であった。その後は名人戦では豊島将之九段に勝ったが、藤井名人でなかったら、豊島九段が勝っていたのではないかなと感じた。機械との勝負ではなくて人間との勝負であるから、一時期何故渡辺明九段は藤井八冠に負けるのだろうかと評判になったことがある。次々と四冠も奪われるような将棋の内容ではなかった。しかし途中からは、いくら渡辺九段が有利になっても最後は藤井八冠が勝つのだろうという雰囲気になっていった。人間対人間の勝負だから、片方が自分から崩れるようになったら、対戦成績は一方的になってしまう。最近では、私は見ていないが、羽生善治九段対佐藤康光九段の王座戦がそうだったようである。長くナンバー2の位置にいた佐藤康光九段はその棋歴からすると信じられないほどの対羽生戦の負け越しである。この王座戦でもほぼ佐藤康光九段の必勝形だったそうである。佐藤九段の読みの中にもこう指せば勝つという指し手もわかっていたそうである。それがどこでどう間違えたか詰ましに行って逆転負けを喫したそうである。森内俊之九段だったら逃さなかったと思う。相性というか、勝負師心理みたいなものがあるのかどうかわからないが、やはり微妙に働くのであろう。大山対二上戦でもよくあったらしい。何故この将棋を二上九段は落とすのかというのが。

 叡王戦第3局は藤井叡王の先手番ということもあり、ずっと藤井叡王の50%以上の評価値で推移していた。次第に藤井曲線になるかと思われたが、細かくいつもの藤井叡王であったら指すであろうという手を見送っていた。不利を自覚している伊藤七段は長考を重ねて1時間を切ってしまった。ところが時間を使って考えているので、この筋を考えているのだろうと思っていると、結局は時間を使って見送っている。時間だけが無駄に浪費している。60%台から不利になったところで、この将棋は負けたなと思った。最善手を読まない筈はない。しかしその最善手が指せないのである。結局は自信の無い局面を見つけては、最善手を見送り、次第に悪化していく。他の棋士ならば間違えるような場面でも伊藤匠七段は落ち着いて最善手を指してくる。最後は自分の負けの手順を見つけて、諦めた様子になってしまった。1,2%になっても逆転の手順を探し続ける藤井八冠の姿はそこにはなかった。10%台や20%台から逆転は何度もしたが、伊藤匠七段に対しては途中で諦めている。局後の感想でも伊藤匠七段が勝ちを意識したのは最終手の1五桂と打った時であった。評価値は一方的になっていたが、逆転の目は最後まであったのである。第一4三桂と打つのが遅すぎた。1三香成は何故実行しなかったのか。敗勢に陥って、その場しのぎの手は逆転にはつながらないのは、藤井八冠がよく知っていると思うのだが、対伊藤匠七段戦に於いては敗者の心理に陥るようである。

 7連敗を止めた藤井八冠は豊島九段に対して連勝していった。まだカド番になっただけで負けてはいないのだが、このまま行ったら伊藤匠七段の対藤井戦の3連勝で叡王奪取が成就しそうである。メンタルの部分なので直ぐに回復するかどうかはわからないが、見物である。ほとんど初の試練と言ってもいい局面である。羽生善治七冠が三浦弘行五段(当時)に棋聖位を奪われたのは、色々な条件が重なったのであろう。しかし伊藤匠七段はすでにレーティングでは、藤井八冠に次ぐ第2位である。前年度の優秀棋士にも選ばれている。文字通りのナンバー2である。早めに立て直さないと次々にタイトルを奪われていくかもしれない。藤井八冠を除けば、もう既に図抜けた成績を収めている。挑戦者魂を持って挑まないと、手が伸びないのではないかな。初めての後輩棋士の挑戦者だからな。やはり受けて立つ気持ちが生まれているのかもしれない。

 考えてみれば途中まで負け越していた佐々木大地七段は半年先輩の、順位戦同期の棋士である。現在4連敗中の大橋貴洸七段は四段同期である。同年もしくは年下の棋士はようやく出て来たのである。藤本渚五段、上野裕寿四段の二人が年下の後輩棋士である。大山十五世名人を負かしたのは24歳下の中原誠十六世名人である。恐らく大山級の強さを持っているのであれば、10歳下ぐらいまでは負かすことが出来るのであろう。AIと勝負するのではなく、人間と勝負するのだから。後輩棋士は随分と出て来たが、年下や同年との競争は始まったばかりである。