今日は母の月命日である。母が亡くなって丸5年と1ヶ月が過ぎた。死んだ子の年を数えるではないが、死んだ母の年を数えると満103歳になる。父は121歳である。生存中は125歳まで生きるとか言っていた。世界最長寿になりたいらしく、結構健康には気を付けていた。ところが糖尿病を発症し、前立腺肥大の為に排尿に苦しむようになって、125歳のセリフは聞かなくなった。63歳で母と離婚して家を出てからは病気で苦しむようになった。72歳で二番目の姉が亡くなった時は、心臓マッサージをする医師に、もうやめてくれと頼んでいた。翌年の姉の初盆にはいきなり姿を現した。東京に住んでいた三番目の姉の元を訪ねたらしい。私は初盆の為に京都にいた。初盆供養が終わり、京都駅で私と義兄と孫二人に見送られて明石行きの列車に乗った姿が、父の生きている最後の姿だった。今思うと今生の別れをして回っていたのかなと考えてしまう。それから1ヶ月足らずで急性心不全で亡くなった。糖尿病昏睡で倒れたと聞いている。初めての喪主を勤めた。もう48年前になる。その頃から父の亡くなった年までは生きたいと思った。もうすぐその年になる。

 父よりも随分体が弱かった母は思いがけなく長生きをした。98歳である。父よりも25年も長く生きたことになる。不思議なことである。幼い時の刷り込みがあるせいか、母は病弱で長生き出来ないと思っていた。58歳の母親が故郷に戻って就職してほしいみたいなことを言ってきた時、もう先は長いことは無いのだから、せめて親孝行の真似事をしてみようかと思い、福岡に戻ってきた。いわゆるJターンである。故郷そのものには適当な就職先がないことも多いので、故郷近くの都会に就職するのが流行っていて、それをマスコミはJターンと呼んでいた。Uターンではなく途中下車みたいになるので、Jターンである。上手く名付けたものである。「都落ち」よりも響きがいい。そこから「デモシカ教師」の人生が始まった。

 東京の私立大学の夜間を卒業しただけの私にとっては、民間企業への就職は難しく、試験のある就職先しかなかった。公務員試験もあったが、一応教職課程を取って、教員免許を持っていたので、教員採用試験を受験した。大学受験は失敗したが、試験そのものには結構合格していたので、少し自信はあったが、それは10代の時の話だと思い、不安に思っていた。長崎、佐賀、神奈川と次々と断って、残るのは千葉と福岡だけになっていた。福岡まで断るともう九州には帰れなくなるなという思いと、親孝行の真似事という響きに幻惑されて、福岡に戻ることになった。今でもあの頃の選択を考えてみる。元来優柔不断な人間だったと思う。優先課題は何だったのか。二番目の姉が亡くなった時、兄弟親族が集まった。大学卒業したものいなくて、大学生は私だけであった。父は旧制の専門学校を出ていたけれど、僧侶である。三番目の姉は看護学校卒業で、学歴的には一番の高学歴であった。二従姉弟まで広げると大学院修了もいるが、4親等内の身内には大卒はいなかった。初めて強く大学を卒業しなければと思った。

 母には姉のように慕い頼りにしている従姉がいた。旧制高等女学校を卒業して、五高生と付き合い、東京帝国大学を卒業した人と結婚した。文学部出身だったので戦後は通訳をしていたそうだ。3人の子を持ったが、旦那は仕事で知り合った女性と、今で言うところの不倫をしてしまったようである。GHQ関係の仕事をしていたので、先方が強気だったようだ。結局は離婚になってしまった。長男を旦那が引き取り、下二人の男の子と女の子を母の従姉が引き取ったそうである。給料がよかったので養育費はきちんと払われたらしい。戦中戦後では比較的恵まれた境遇だったようである。母からあまり詳しい話は聞いていなかったので、母がどのように思っていたかはよく分からない。私が大学受験の為に上京した際、約1ヶ月お世話になった。この家だけは大学の名前がよく出ていた。3人の子どもはいずれも学習院大学に進学して、卒業後はそれぞれ大学院に進学した。従姉の再婚相手は資産家だったようで、私がお世話になった時はすでに亡くなっていて、息子と娘の3人暮らしであった。私がお世話になった時は息子は大学院の修士論文に、娘は大学の卒業論文の作成に追われていた。大変な時に泊めてくれたものだと今となっては感謝のしようもない。母は従姉の事を○○姉さんと呼んでいた。幼い時はよく後をついて回っていたと語っていた。

 母の最初の結婚相手は親戚の若者であった。大連に住む満鉄の社員だった。風邪で臥せっていた所にやってきて、縁談が決まったらしい。今考えると満鉄の社員でも召集が近くになったので、早く所帯を持たせようとしたのであろう。大連での新婚生活は半年余りだったらしい。昭和19年の入隊だったらしい。関東軍である。大連での新婚生活は便利で楽しかったらしい。最初は母の母親も大連まで来ていたらしく、あれこれと世話をしていたようだ。父親は亡くなっていたので、少し長めの滞在も可能だったようだ。大連での生活は都会生活のようであったらしい。ガスなどもあり煮炊きに不自由することもなかったらしい。旦那が入隊した後は面会にハルビンまで行ったりしたそうである。兄は当時の天長節の翌日に生まれた。初産だったので少し遅れたそうである。看護婦さんたちは残念がっていたそうである。母が産んだ3人の子の内、兄が一番立派な施設があるところで生まれたし、百日の写真も残っている。そこで姉は羨ましがるが、日本に引き揚げてからは、苦労の連続である。義姉の49日では、珍しくその苦労の一端を話していた。やはりこの年になると、未来のことではなく、過去の思い出話ばかりになりがちだな。しかし戦前戦中の人々は、もっと色々語るべきではなかったであろうか。我々は伝聞と推測ばかりである。