大学卒業後、今度は就職浪人になった。4年生の時行った母校での教育実習がきっかけで、すっかり高校教員になることは諦めた。採用試験も受けなかった。ところが私立大学の二部卒業生で、年齢も26になっている大学生を受け入れる企業など無かった。大学卒業後やはり試験を受けて合格するしかないなと思った。公務員試験も考えたが、今更官僚もないし、中級だったら嫌な思いをするだけかななどと思って、教員免許はあるのだから、教員採用試験を受けることにした。その頃はまだ複数受験が出来たので、4県ほど受験した。大学の方から九州の私立高校の話が起きたが、その県の出身者が希望しているというので、辞退することにした。

アルバイトとして文京区の進学教室の講師をした。小学生に国語を教えることになった。国語は教育実習以来だが、小学生だからと舐めていたら、漢字の筆順の間違いを指摘された。大体小学校以来筆順などを気にしたことがなかった。しかし小学生に指摘されたからと言って間違いは間違いはだから、結構真面目に筆順を勉強した。高校の教員になって一番私にとって役に立ったことだったかな。受験で忙しくなり、九州に戻ったりしたので、進学教室は辞めることになった。受験が終わるとアルバイトは警備員をしたり、紙オムツを配ったりした。紙オムツを配るバイトは面白かった。宣伝の為に無料で配る訳であるが、オムツが干してある家庭を狙って、無料配布するわけだが、赤ちゃんがいない家庭があることもわかった。病人や高齢者などのいる家庭である。赤ちゃん用の紙オムツなので、勝手に思い込んで無理においていくわけにはいかないのである。

 紙オムツを配っているバイトをしているときに、田舎から電話があり、高校で講師をしないかという話が起こった。わざわざ九州に帰って講師をするのもなんだかなと思っていた。どうせ来年からは教壇に立つことになるのだから、急ぐ必要もないと思っていた。既に3県ほど断っていたので、気乗りはしなかった。ところが姉が紙オムツなんか配っているより、学校で教えた方がよいでしょうという。家賃も滞納していたので、少しお金になるバイトという感覚で、高校の講師の話を引き受けた。10月の事である。11月からということだった。電話で話したが赴任先は言えないという。帰ってからの話だという。非常勤講師かと思ったら常勤講師である。期限付き常勤講師というのかな、場所がわからないと住むところも決まらない。何となく実家から通えるところだろうと勝手に思っていた。ところが帰って、面接に行くと、通えるところではなかった。一応校長が世話をするということで、1泊旅行の感じで行くことになった。農業高校であった。下宿が決まるまで校長の所に宿泊することになった。私ともう一人、農業の先生が講師になって赴任することになった。このあたりの経緯は省略する。農業高校だったので、週18時間6クラスに現代国語を教えることになった。3年生の副担任になった。授業は4クラスが3年生、2クラスが2年生だった。もう一人国語の先生に女の先生がいたが、そちらは1年生4クラスと2年生2クラスであった。2年生は女子クラスを女の先生が担当して、男子クラスを私が担当した。12月には期末テストがあった。3年生にとっては卒業がかかっているテストである。問題作成にはだれにも相談が出来なかった。ただ問題は易しくしてくれと言われたことだけは憶えている。平常点の割合も決まっていて、その材料は私が赴任してからのものだけである。すべてが任されて困った覚えがある。問題作成から採点まで悩んだことは確かだが、平常点の内容から何もかもが任されていたので、困りはしたが、ストレスになることはあまりなかった。他の事でストレスになることが沢山あったからな。

 同期の農業の先生と、彼の叔父さんの家に移った。正確に言うと祖父の家である。離れを作ってそこに叔父さん一家は住んでいる。お祖父さんは、病院に入院して母屋は誰も住んでいなかった。そこに私と同期の農業の先生が住んだわけである。荒れた高校だったので農業の先生は大変だったようである。私は肥ったが、彼は2ヶ月で10キロ瘦せたそうである。私はストレス解消の為に食ってばかりだったが、彼は食欲不振になっていたらしい。

 採点の夢で嫌な思いをしたのは、正式に採用されて、普通科高校に赴任してからである。1学年4クラスの農業高校と1学年10クラスの普通科高校では、全然違っていた。全12クラスの農業高校は、国語の時間は全部で36時間である。2人の先生でまかなえる。1年生だけで60時間の国語の授業があるので、3人以上が必要である。国語教師だけで10人いた。プラス非常勤講師に手伝ってもらう必要があった。最初からこのシステムに慣れていればよかったが、下手に農業高校で、自分の責任で何でもしていたので、面食らってしまった。(つづく)