一昨日は義姉の49日であった。姉と一緒に兄の元に向かった。義姉を最後に見舞いに行った時は、久しぶりの遠出でずいぶん時間がかかったが、その後は葬儀の為に訪れたりしたので、だいぶ慣れてきた。1時間20分程度で着いた。兄の新しい住まいには初めての訪問である。姉はコロナで葬儀にいけなかったので、その後は二度ほど兄の下を訪れている。仏壇の購入や納骨堂を決めたりしたようである。義姉の親類縁者に対しては、相変わらず連絡はしなかったようである。

 以前にも記したと思うが、兄夫婦は駆け落ちして一緒になった。もうおよそ40年前にもなる。二人ともそれぞれに配偶者もいて子どもも二人ずついたようである。上は高校生だったらしい。二人とも30代半ば過ぎだったが、結婚が早かったので子どもは割と大きかった。間を取り持つ人もいて、色々あったようだが、無事に離婚して二人は一緒になった。夫婦二人で住み込みの仕事先を母は紹介したようである。一緒になってしばらくして義姉は病を得た。脳腫瘍で大手術になったらしい。母はしばらく看病と兄の世話で兄宅に住んでいた。悪く言う人もいたようだが、色恋と病気は別物である。母は新しい嫁については褒めることが多かった。私にとっては遠くになっていた兄が近くになった感じで、母が喜んでいるようなので、まあ良いこととした。二人の甥とは疎遠になってしまったが、元々会うことが少なかったので、あまり気にはならなかった。ただ母の血筋が残っていることは意識した。父の血筋も二番目の異母姉を通して残っていることを感じていた。

 通夜の席で兄とは昔話を語り明かした。特に山口時代の事は、私にとっては第二の故郷という思いがあったので、兄と一緒に思い出話に花が咲いた。苦労話ではあるが、私は嫌いではない。ところが49日でわかったのは、姉は苦労話は嫌いなようであった。

 葬儀同様私がお経は上げた。「門前の小僧習わぬ経を読む」ではないが、僧侶の息子の私は、父の読経の様子を少しは憶えている。坊守だった母もかなりお経を読めたので、母と二人になってからも、読経は耳慣れたものであった。兄の依頼もあり、私がお経を読むことになった。午前中に済ませた方がよいので、11時過ぎにはお経を読み始めた。25分前後で終わった。

 お店の予約は13時半だったので、しばらく思い出話をしていたら、兄が涙を流してしまった。姉は「言わんこっちゃない」というような目くばせをして、昔話には終止符を打とうとしていた。

 お店に移動して、昼食を食べ始めたが、兄は久しぶりの昼間からの酒を飲み始めた。亡くなった義姉から昼間からの酒は厳しく禁じられていたらしく、30数年ぶりだと言っていた。義姉は兄より一つ年上であった。酒煙草を禁止するようなことは言わなかったらしいが、飲む時間帯や喫う場所には厳しかったらしい。「あれのお陰で、俺もまっとうな人間になれた」と繰り返し言っていた。しばらくは義姉がしてくれたことを言い始めた。40年の思い出だから、私は聞いてやるのが務めだと思っていたが、姉はあまり気が進まないようだった。考えてみれば一緒に住んでいた人を失くしてしまった3人がいるなと兄が言い始めた。私は母を、姉は夫を、兄は妻を失くして、今や3人とも一人暮らしだなと。残された3人だけど、まだまだ頑張らないと言うが、もういいやという気もすると言い始める。私は来年の母の7回忌までは元気に無事済ませたいし、父の50回忌も来年だから、来年までは動けるようでありたいと言った。法事も生きる意味になるのである。姉は今年が夫の3回忌であるが、そのことは口にしなかった。その内食事の席での緊張感を、兄が思い出して口にした。家族5人で食事をするのであるが、父は「女は嫁に行くと思うように食べれないので」と言って、自分のおかずを姉にやるのである。父には私たちより1品2品おかずが多いのである。母がそのようにしていたのである。父が姉におかずをやる時、兄と私は見てはいけないのである。見ると𠮟られるのである。「男がいやしか真似をするな」と言われるのである。母から分け与えられたおかずで、感謝しながらいただくものであった。兄は「食べ物の恨みは恐ろしいというが、ほんと食べ物のことはよく憶えているな」と。山口での水汲みは本当にきつかったらしい。風呂を沸かすために、ドラム缶に下から何杯も汲み上げてくるのは辛かったと。当時はまだ水道が引けておらず、階段下の共同の井戸から水を汲んでくる事しかなかったのである。姉はドラム缶風呂の縁の熱さを口にするだけであるが、兄からは「お前も苦労したかもしれないが、恵まれていたぞ」と言われて、「それは私のせい、私のせいだとは思わない」とか言っていたが、さすがに兄は口にしなかったが、姉のせいで兄や母の仕事が増えたことは結構あったのである。本当に憶えていないのであろう。男と女の違いであろうか。兄は今回初めて父だけでなく母も恨んでいたことを話した。大連時代の事は何一つ憶えていないので、いくら写真に残っていても、記憶にあるのは母が父と再婚してからの苦労である。幼い時の記憶であるからいつまでも鮮明に残っているのであろう。2番目の姉に怒鳴り込まれた話などもした。大陸からの引揚者家族と半島からの引揚者家族は福岡と熊本の県境で近所になったのである。生活必需品を蓆に並べて売っていた母の横で、父はどうやら見初めたらしい。昔話で母が言っていたことには、自分が売っていた横でいつの間にか自分も売り始めたということである。昭和23年か24年の頃である。銅婚式の記念に姉と私で母に櫛を買ってやったことがある。その時の日付は昭和24年10月だったと思う。

 いつの間にかちょっと義姉よりも母の思い出話になってしまった。義姉も兄弟姉妹は多いらしいが両親とも同じなのは妹が1人だけらしい。昭和19年生まれなので、再婚同士の縁組は多かったようである。戦後の新しい民法で引き裂かれた親族家族は多かったようである。戦後のGHQの戦後政策の狙いは効果を発揮しているのである。欧米の占領政策は自分たちに有利になるように考えられているのに、有色人種はそれに気づかない。脱線しそうなのでここでやめる。