平成22年10月1日から特別養護老人ホームに母は入所したが、これでさらに長生き出来たと思う。入所した時に既に満89歳であった。私はもう長くはないので、自宅で看取りしたかったのだが、結論から言うと母は平成31年3月27日に亡くなった。脳梗塞で倒れたのが平成21年5月5日だったので、約9年10ヶ月とちょっと生きることが出来た。入所してからも約8年半だったので、もう十分だろうという感じではあったのだが、「後悔先に立たず」で、いざそういう立場になったら後悔ばかりである。

 先ずは脳梗塞で母が倒れた時に、もっと早く救急車を呼ぶべきだったと。ソファで横になった時、そこで救急車を呼べば、半身不随にならなくて済んだのではないかと。当時は命が助かったことに感謝していて、半身不随になったが、左側で良かったとか、今思うと都合よく解釈していたなと思う。自分勝手な解釈をしていたのではないかと自責の念が湧いてくる。

 しかしながら自責の念を軽くしてくれたのは、特別養護老人ホームでの母の日々であった。施設に入れたという自責の念で、母が入所した当初は毎日見舞いに行くのを日課とした。車で早ければ25分程度で、少し混んでいると35分ばかりかかる。昼食の時間かおやつの時間を狙っていくようにしていた。姉は家事もあるので、1日置きが多かった。姉は夫婦で行く時もあるが、多くは私と一緒であった。家から持って行くおやつで、食べ過ぎになり、体重が増えていった。私が一人で行くと、息子さんが来たというスタッフの言葉で、嬉しそうにしていたそうだが、私の顔を見ると、ぷいとそっぽを向いたりしていた。父と思っているらしい。父が亡くなって30年以上、離婚してからは50年近くたっているのだが、私が父に似て来たからなのか、ともかく息子とは認識してくれていなかった。娘の旦那の義兄は名前まで出てくる。兄夫婦も月に一度は見舞いに来てくれる。兄の方は息子の顔も名前もわかるのである。再婚相手の義姉も認識しているようであった。長い廊下の向こうから、兄が車椅子を押して兄夫婦がやってくる姿を、きちんと認識していた。兄とは一緒にいた時間は長くはなかったのにと思った。一番親しかった人から忘れていくというのだから、同居の私から忘れていくのは当然だと言われるが、単なる慰めの言葉にしか聞こえなかった。

 私のことを憶えていないということを抜きにすれば、特養での日々は快適だったようである。ただし最初の頃と違って人手不足が目立つようになってからは、スタッフは大変そうであった。個室が10部屋あって、行き来できるフロアが向こう側にもあり、20人をギリギリの人数でやっていた。一応定員があるのでそれを満たしているのだが、経験がものをいうし、馴染みのスタッフが多いと、利用者も安心するのか、仕事がスムーズに進むようだ。同じ人数でも大変さは違ってくるようである。

 イベントも多くレクレーションも多かった。施設の努力は利用者の家族にも十分伝わるような状態であった。施設長は女性で、よく花の世話をしていた。細かい心遣いが出来ているようだった。姉とも話したが、母にとっても在宅介護よりも随分良さそうだねと。我々の所では食事と排泄の世話が主で、楽しい催し物などは考えつかなかった。身体の清拭は姉がやってくれたが、入浴は無理だった。私の腰痛と姉の膝痛で、母の体重を支えるのは難しかった。しかし施設では規則的に入浴の時間があった。入浴を済ませた母は気分良さそうであった。管理栄養士からはおやつを控えてくれと言われていたが、私たちの顔を見るとおやつがもらえると認識していた母は、おやつを欲しがった。兄は母に好きなものを食べさせれば良いではないかと言うが、体重が増えると介護士の負担が重くなるのは理解できていた私たちは、カロリーの少ないおやつを用意したが、月に一度の兄たちは母の好きなものを持ってきていた。昼食前に兄たちはやってきて、個室のドアを閉めて、こっそりと母に食べさせていた。母の昼食は兄が食べることが多かった。兄夫婦と姉夫婦と私と母の6人の昼食は、今思い出すと幸せな時間だったんだろうとしみじみと感じる。今は母も義兄も義姉も亡くなってしまった。順送りだねと義姉の火葬の時に兄に言った。姉はコロナに罹り、兄と私の二人だけの野辺送りだった。

 平成の29年の頃だったか、医師の方から母の腹部に何か腫瘍みたいなものがあると告げられた。かなり大きなもののようだと。調べて見ますかと言われたが、姉と私は以前から話し合っていて、検査も手術も不要だと。痛みがあるようだったら、痛みは取り除いてもらいたいと。その後も静かな時間が過ぎていった。平成30年も終わりの頃から、来年の桜は見ることが出来るだろうかと話し合うようになった。義姉はもう外出は出来なくなっていた。平成は31年4月で終わることになった。大正、昭和、平成と3世代を生きた母は次の時代まで命がもつのかなと、子どもたちで話したりしていた。

 母の体重はどんどん減っていった。一時は70キロ近くあった体重は、40キロ近くになっていった。30キロ近く減ってしまった。3月になり桜が咲くのが待ち遠しかった。最後に桜を見せて看取りたかった。数えでいうと99歳になり白寿になったなと思った。施設の中庭の桜が咲いた。姉夫婦と私で母に中庭の桜を見せた。看取りの手順を施設の方と相談した。施設には外部の者が宿泊出来る部屋があって、そこで看取りの用意をすることになった。2日目だったか、3日目だったか、夜になって母が危ないとなった。兄にも連絡していたので、車で向かっているという。虫の息というのはこういうことを言うのかななどと思いながら母の顔を見ていた。苦しそうではなかったのがせめてもの慰めであった。兄が間に合った。

 「花の下にて春死なん」と別に生前の母が言っていたわけではなかったが、葬儀は3月29日で桜は満開であった。葬儀所の近くの公園は花見の客で賑わっていた。葬儀所の桜の木の下で姉夫婦と兄と私の4人で記念写真みたいなのを撮った。