結論から言うと在宅介護は丸1年もたなかった。ある程度自信もあったのだが、現実はそんなに甘い物ではなかった。準備もしていたし、姉と義兄の協力も得られたし、経済的にもまだ余裕があり、後は頑張るだけだと思っていた。しかし自覚していなかったが、要するに「老老介護」だったわけである。老々介護というのは、年を取った夫や妻を配偶者が介護する形だと思っていた。子が親を介護するのは、老々介護とは思っていなかった。そして自分たちが老人の部類に入るとは思っていなかった。母は89歳になったが、私はまだ59歳であり、姉も60歳である。まだ年金受給者でもない。義兄は高齢者の仲間入りをしていたが、直接母の介護するわけではない。昼間は姉が中心になり、車椅子に母を乗せてマンションの周囲を散歩したりしていた。私は時々元のマンションに戻り睡眠を取ったりしていた。デイサービスも受けていて、ヘルパーさんにも週2回来てもらっていた。ケアマネージャーさんにも引き続きアドバイスをいただいていた。私としては100点満点で言うならば80点はあげられる内容だと思っていた。

 ただ残念だったのは認知症が進んだせいか、私のことを認識してくれなかったことである。既にリハビリテーション病院に入院している時から、息子として接してもらえなくなっていたが、在宅介護になってからはどうやら私たちの父親と間違えているようであった。小さい時の私がいないと心配したり、給料を渡してくれる大きくなった私のことは尋ねるが、目の前の私のことはスルーである。車椅子への移乗やトイレへの移動、ベッドへの移動などでも、私がしようとすると嫌がる素振りの時がある。その結果として姉の膝が痛くなってきた。元々変形性膝関節症の疑いが出ていたのだが、悪化させたようである。私がすることが増えたら、私の腰が痛くなってきた。私が留守の時、たまたま義兄が車椅子に移乗させることがあったが、驚いていた。こんなにお母さんが重いとはと。体重は60キロ台半ばだったと思うが、ダラーとなった母を移動させるのはかなりの重労働になっていた。姉は元看護師というと怒っていた。病院勤務をしていないだけで現役の看護師だと言い張っていたが、この頃は病院勤務していた頃を思い出していたのかもしれない。病院勤務を辞めた理由は腰痛の悪化だったのだから、かなりきつそうであった。私も腰痛が酷くなっていたが、言い出すことは出来なかった。冬が過ぎ、春が過ぎ、夏の終わり頃だったであろうか、ケアマネージャーさんから施設を探してはどうかと言われた。姉に愚痴めいたことを言ったのだろうと責めたりして、口喧嘩になったりした。「もう音を上げたのか」とかも言い合いになったりもした。やはりイライラしていたのであろう。ケアマネージャーさんの言うことには、「探し始めてからも2,3年は入所までかかりますよ。人気の施設は待機人数も多いですよ」と。そういう噂はよく聞いていたので、姉は探しに行こうと言い出した。私は自宅で看取るつもりだったので、施設には入れないと言っていたが、姉は現実を見なさいと言う。「私が出来なくなったらあなた一人で出来るの」と言ってくる。姉夫婦や色々な人の協力でここまで出来ているが、私一人ではとても無理だとは感じていた。渋々見に行くだけならばと承知した。

 姉がネットで調べた施設を、姉といっしょに訪問するようになった。ヘルパーさんが来てもらっている時を利用して、義兄にも来てもらって、ということを繰り返した。私は遠いだの、暗いだのと、マイナス面ばかり口にする。姉は現実的に、費用の事や、最後はどうするのかと、施設に聞いていた。最後は病院に入れるのかどうかを問題にしていた。男はどうしても現実から目を背けようとする。男として一般化してはいけないのだろうが、正直この辺りではどんどん話を進めようとする姉に反発していたようである。しかし看護師としての姉の判断の方が正しかったのだろう。ある時新しく増設した特別養護老人ホームをケアマネージャーさんが紹介してくれた。車で30分かからない場所で、施設も新しく明るい感じの老人ホームであった。費用の面も何とかなる程度であった。9月の半ば頃であったろうか。待機人数も少ないようであった。人気がないのではなく、増設したためである。姉と相談の上、一応申し込んでおこうということになった。ところが4日後に、入所許可の返事が来た。身体障害者1級で、要介護度5である上に、同居の独身の息子が一人とかというのが、優先された理由だったのであろうか。10月1日が入所予定日になった。平成22年10月1日に特別養護老人ホームに母は入所した。11ヶ月ちょっとの在宅介護期間であった。(つづく)