最近は「推し活」という言葉をよく目にする。○○活と言うのはあまり好きではないが、「推し活」というのは以前からあったことを言い換えているだけのように思う。要するにファン活動と一緒に見えるが、何か違うのかな。自己主張の強さや承認欲求の強さや、マスコミの勝手な話題作りなどを感じてしまい、あまり好きではないが、「推し活」と言えるような私の活動は、TV中継の視聴と、このブログで取り上げることぐらいかな。

 MLB2024が始まって、再び午前中の時間がMLB視聴に費やされるようになった。スポーツ中継は生だと亡くなった義兄は言っていたが、私はむしろ生放送は見ないで、録画を見るようにしている。一番の理由は、情けないことにトイレの我慢が効かないことである。以前は野球中継だったら攻守交替の時、民放だったらCMが入っている。CMに入るまでトイレを我慢できた。今は我慢していたら、漏らしてしまう。一番見たい場面でトイレに慌てていくのは残念を通り越して情けない。トイレで歓声などを聞いたら、何のために見ているのかと思う。ネットニュースで結果を知らなければ、録画視聴でも十分に楽しめる。5分程度の時差で見るのは、それはそれでいいものである。午前中に用事があり、録画をしといて午後から見ることもあるが、興奮度は少し変わっているが、まあ体の為にはいいかなと思う。埼玉の友人もMLBファンなので、興奮冷めやらずの時は電話することも多い。彼は大谷出場無しの時でもMLBの試合を観るファンで、いろいろ情報を教えてもらう。水原通訳問題も、裏情報みたいなものを教えてもらった。彼とは高校入学した時一緒に野球部に入部した仲でもある。当日は雨だったので、雨天練習の様子を見学させてもらった。翌日にはやっぱり入部はやめますと言い出したが、彼は即日了承されたが、私は1週間ほどかかった。体格も野球の技量も彼の方が数段上だったが、彼は優秀クラスに所属していて、私は普通クラスに所属していたからのようだ。放課後課外があり、優秀クラスは全員強制であった。普通クラスは希望制であった。優秀クラスの生徒はたとえ入部しても途中でやめることが多かったようである。

 MLBは始まったが、将棋の順位戦は一時休止である。しかし藤井竜王名人にとっては、名人戦の季節になった。そして叡王戦では三度伊藤匠七段の挑戦を受ける。藤井対伊藤戦については升田対大山戦を想起する。兄弟弟子である二人は随分と二人で指したらしい。兄弟子の升田青年に大山少年は駒落ちでもなかなか勝てなかったらしい。元来攻め将棋だった大山少年が受け将棋に変わったのは、対升田戦での影響が大きかったらしい。後年二上達也九段が語っていたが、「攻めの升田とか受けの大山とか言って二人の将棋を別物みたいに言うが、私にとって二人はよく似た将棋だと思う」と。最優秀棋士賞は藤井竜王名人で決まりだが、優秀棋士賞は誰であろうかという話題で、伊藤匠七段の名前が出ていたが、優秀棋士賞はどちらかと言うと年配の棋士が受賞するイメージがある。伊藤匠七段ではないのではないかなと言われていた。昨年の実績で言えば伊藤匠七段で決定という感じであるが、永瀬拓矢九段や菅井竜也八段の目はあるのかなと思っていたが、順当に伊藤匠七段に決まった。まだ公式戦では一度も藤井竜王名人に勝っていない伊藤匠七段だが、勝ちだすと互角の成績を残すかもしれない。タイトル戦で藤井八冠の敗れると、調子を落とす棋士が多いのだが、伊藤匠七段は益々安定した勝利を重ねているようだ。対藤井戦の敗北を除けば8割超の勝率を誇る。記録部門の受賞も最多対局賞と最多勝利賞のダブル受賞だった。最多勝利賞は藤本渚五段に逆転されたと思っていたら、どうやらNHK杯で1勝しているようだ。最高勝率では中原超を一度に二人達成するかと思ったが、残念ながら両者とも8割5分超を果たしたが、中原超はなかった。歴代2位と4位の記録に終わった。以前は7割5分超で大体最高勝率を獲得したものだが、8割5分で最高勝率賞を逃したのは、おそらく空前絶後であろう。

 MLBの大谷翔平選手が推しではあるが、昔はONも推しだった。その関係でジャイアンツとホークスも推しになった。しかし毎日出場する大谷を見るために、他のスポーツ観戦には制限を設けるようになった。スポーツばかり見ていられないからな。

 相撲観戦と駅伝観戦はやめられない。しかし相撲は「幕内の全取り組み」を見ることで我慢している、流石に春場所は終盤は実況を録画して見たが、マラソンはだいぶカットした。男女のサッカーも倍速にしてゴールシーンだけを普通再生にするというセコイ見方をするようになった。人生の残り時間を考えると、スポーツ中継ばかりを見ていられない。

 多趣味であることを嘆いていた時期もあったが、晩年になって多趣味であることが人生を豊かにするなと思うようになった。一つの趣味を極めることもよいが、いろいろ見聞を広げることはいいことだと思っている。自分の人生である。自分勝手に生きていいとは、絶対に思わないが、許される範囲内で、自己本位に生きるのは悪くないと考えるようになった。「世の為人の為」が全員に課せられた命題みたいなものであったら、ちょっと息苦しいかもしれない。「寛容と忍耐」は誰のスローガンだったかな。「不適切にもほどがある」というドラマを見ながら、そんなことを思った。1960年代前半だったかな。