退職してからまる17年が経った。母が亡くなって丸5年。父が亡くなって、来年で50回忌である。私が25歳の時、73歳で亡くなった。その時色々考えた。前年に二番目の姉が亡くなった。34歳であった。乳癌であった。4親等内の身内の死は初めてだったので考えさせられた。翌年に娘の初盆に顔を見せて、1周忌前に亡くなった。心不全というが、主な原因は糖尿病であろう。酒煙草はやらなかったが、甘い物は好きだった。70歳を過ぎた頃から、糖尿病と前立腺肥大に悩まされていたようだ。それは今私を苦しめている。遺伝とは恐ろしいものである。甥も糖尿病に苦しめられたが、今は何とか克服しているそうだ。3番目の姉も乳癌に罹ったが、患部を切除して一命は取りとめた。姪はやはり34歳前後はかなり気にしたらしい。母も叔母も34歳で乳癌に罹ったのだから気にするはずだ。父は碌なものは残さなかったなと思ったものである。姪は無事罹患せず、今では若いお祖母さんになっている。しかし40代の祖父母は珍しくとも何ともないのかな。

 渡部昇一だったかな、人生をいくつかの時期に分けて、ライフプランというかそんなものを立てた方がよいと推奨していた。私は将棋が好きだったので、人生を序盤、中盤、終盤の三つの時期に分けることにした。父の享年73歳を超えたいと思ったので、人生75年で考えた。父が死んだのが25歳だから、25年周期で考えるかと。27歳で教職に就いた私は、50歳を超えたあたりからいつ辞めようか思案していた。直接の原因は母の認知症であった。兄や姉は母は元気だというが、同居している私にとっては、おかしいと思うことが増えてきた。変形性膝関節症は両足とも手術したのでだいぶ元気に歩けるようになった。白内障の手術もしたので、目もよく見えるようになった。60代後半よりも70代に入って、手術後の母の方が元気になった。しかし80歳近くになる頃から、夜はおかしなことが増えた。ベランダに誰かいると言いだしたり、誰か訪ねてきたと言って、玄関の方に行き、酷い時は玄関から出て行きそうになる。寝ぼけているのかと思ったりもしたが、どうも違うようだ。長い寝言も言うようになった。隣の部屋で寝ている母親が気になって、やや睡眠不足にもなってしまった。忘れ物などしたり、記憶間違いは、80にもなれば当たり前のことだからと思うようにしたが、どうもひどすぎるように思えてならない。姉は看護師なので相談するが、昼間の母親は元気そうであるので、私が昔から神経質なところがあったので、私の思い過ごしということに落ち着いた。しかし腑に落ちない私は、介護の講習会に参加したり、年金の説明会に参加したりした。そしてエレベーターがついているマンションの1室を買うことにした。姉もようやく母を病院に診せることに納得して、二人で母を病院に連れて行った。アルツハイマー型認知症ではなさそうであった。加齢に伴うボケなのか、それとも病気が潜んでいるのか、それを見分けたかった。結論はレビー小体型認知症の進行が見られるということだった。病名がわかって安心した。姉も母が病気であると認識してくれた。東京に住んでいた姉夫婦が、私の買ったマンションに移ってくるということだった。東京生まれで東京育ちの義兄が、まさか地方に移住することを承知するとは思っていなかった。条件は5年の期限付きであった。東京の自分たちのマンションは売らずに賃貸に出す。いつでも東京に戻れるようにしておくということだった。しばしば帰省する、しかも長期の帰省である。その間東京で一人暮らしな訳である。たまにならば良いかもしれないが、しょっちゅうでは不自由だったのであろう。私と母が住むマンションから、徒歩10分程度の距離である。一度は介護付き有料老人ホームに入所することで、仮契約まで済んでいたが、母が泣いて嫌がるので、破棄してしまった。後で姉は嫌がっても説得しなきゃと言っていた。長引くことになれば、経済的基盤がしっかりしていないと、無理だよと言っていた。私の中では、仕事を辞めることになっても仕方がないかなと思うようになっていた。私が末っ子で、一人だけ独身だったので、同居の私が母の面倒を見るのは仕方がないと思っていた。母は病弱であるという思いがあったので、そんなに長生きはしないだろうと勝手に思っていた。認知症ではあるが、まだ歩けるうちに、好きな旅行などに連れて行きたいと思っていた。母が86歳、私が55歳の時、私は退職した。私の人生の終盤だというつもりで退職した。教員時代が私の人生の中盤だったなと思いながら、桜並木の下を歩いた。