昨日映画「男はつらいよ奮闘篇」を見た。昭和46年の作品で、マドンナは榊原るみである。前にも書いたかもしれないが、上京して西池袋に住むようになって、最初に見た映画だったと思う。「文芸地下」というところで、確か入場料金は100円だったと思う。途中から入ったので、終わってからもそのまま場所の良い所に移動して、始めから見直した覚えがある。全体的には暗い映画であった。まだ40前と思われる若い渥美清が印象的だったが、やはり榊原るみ演じるところの「花子」が良かった。しかし上京したての若い私にとって、将来の不安を感じさせるばかりの映画だった。70を過ぎた今、改めて見るとまた違った感慨も起こった。

 冒頭の集団就職で都会に旅立つ北国の中学卒業生のシーンは、まだこの頃は有ったのかなと思った。兄は昭和36年の春、集団就職で名古屋の方に旅立った。知多半島の常滑という地名はその時初めて知った。私の時は昭和42年の春だったが、見送りは一人は親の転勤で千葉の方に行くというもので、集団就職ではなかった。もう一人は神奈川の方だったかな、看護学校に行くということだったので、むしろ進学という感じが強かった。まだその頃は3割程度は中学卒業と同時に就職していたように思う。九州と違って北国の方は、まだ雪が消え残る映像でやるせなさが募る感じであった。乗るはずだった汽車に乗り損ねた「寅さん」が汽車を追いかけるシーンは笑いよりも切なさが残る感じであった。

 出演者の名前も渥美清、倍賞千恵子、の次に3人の名が出ていた。榊原るみ、光本幸子、ミヤコ蝶々である。後にマドンナは一人だけ紹介されるようになるが、この時の榊原るみは1人ではなかったが、ミヤコ蝶々と同じ並びである。4枚目には福士先生の田中邦衛、巡査の犬塚弘、ラーメン屋の柳家小さんが3人で出てくる。そして5枚目に博の前田吟、おばちゃんの三崎千恵子、梅太郎の太宰久雄、源公の佐藤蛾次郎と4人の名が出てくる。レギュラー陣よりゲスト陣の名が先に出ていたな。この頃には正月とお盆には「寅さん」を見るというのが定着しかけていた頃かな。ラストはおじちゃんの森川信と御前さまの笠智衆の名が出て来た。おじちゃんは色々と変わったな。笠智衆は戦前からの俳優で、戦後も小津安二郎の作品や木下恵介作品に数多く出演している。

 ミヤコ蝶々は寅さんの産みの母親役をやっていた。今では「男はつらいよシリーズ」は何本も見ているが、この頃は映画では初めてだったので、映画館を出るころは、随分と暗い気持ちになったものである。「文芸地下」は池袋駅の東口というか北口というか、私の住んでいる西池袋とは反対口にあったので、西に出る通路を歩きながら重苦しい感じを払拭できないでいた。異父と異母を合わせると5人の兄弟姉妹だったが、今や完全に一人で、大都会東京に出て来たは良いが、仕事は面白くなく、やめようかどうしようか迷っていた時期であった。劇中で榊原るみが歌っていた唱歌が妙に思い出されたな。「恋いしや故郷懐かし父母」だったかな。結局は夏には会社を辞めて故郷に一旦帰省した。情けない話である。

 「男はつらいよ」については、少し前に友人とおしゃべりしていた。榊原るみの回が印象に残っていると言って、先生は田中邦衛だったと思うと伝えたら、違うと思うと言い返された。友人も映画好きでおそらく私の数倍多く見ていると思う。海外ドラマもよく見ていて、韓国ドラマから中国の時代劇も見ているそうである。その彼が否定したので自信が揺らいでいたが、今回見てやはり田中邦衛であった。津軽の小学校の先生役であった。「若大将シリーズ」の青大将のイメージが強かったので、この時はちょっと新鮮な感じがした。「北の国から」のイメージである。

 最初と最後にはテロップが流された。配慮すべきと言っているが、この映画から50年以上の歳月が流れているが、どの程度世間は変わったのであろうか。私の教え子に、交通事故に遭い、脳に障害を残した子がいた。障碍者の施設で働いていたが、生きているだけでありがたいと父親は言っていた。その後結婚して子どもも生まれた。傍目から見たら可哀想だなとなるのかもしれないが、本人は幸せだと思っているかもしれない。幸不幸は主観的なものだと思っているが、やはり収入の道は開いてやらねばならない。助け合いは必要だが、それに甘えてはいけない。特に行政関係者は、客観的に独立の道を歩めるように、道の整備をしてほしいものである。もっともっと法は整備されなければならない。