今日は母の祥月命日である。平成31年亡くなったので丸5年になる。来年は7回忌なので、何とか持ちそうだ。しかしもう13回忌は無理だろうなと思っている。来年は父の50回忌でもあるので、そこまでは元気でいたいものである。生きる意味が、亡くなった人の法要をすることになってきている。母が生きている時は、祖父や祖母の50回忌を無事済ませることが出来たことに、感慨深くなっていたな。祖母の50回忌には、70代80代の親戚も出席していて、祖母の亡くなった時の状況などを話していた。昭和20年の8月、空襲警報が鳴り防空壕に避難しなければならなかったが、逃げ遅れたそうだ。空襲警報が日常になっていた頃である。この日に祖母も含めて親戚の多くの者が亡くなったそうである。結婚して大連に住んでいた母は、昭和22年に引き揚げてくるまで、祖母の死を知らなかったそうである。まだ満2歳にならない兄を抱えて、祖国の地を踏めて嬉しかったが、すぐに生活は困窮して、苦しかったそうである。母の友人の家の横に、「ゲヤ」と言っていたかな、勝手に「下屋」という字を思い描いていた。母の説明によると、家の軒先を伸ばして、雨風をしのぐ程度の狭い小屋のようである。そこに妹夫婦も転がり込んできたらしい。姉妹仲は悪かったが、どうもこの辺りに原因があるようだ。詳しいことは聞かないようにしていた。姉妹仲は悪かったようだが、結構助け合っていたらしい。山口から故郷に戻った時、兄弟3人で汽車に乗って帰ってきたが、迎えに来るはずの父が迎えに来てくれなかった。母は寺の後始末で、まだ山口に残っていた。小学生の弟妹を連れて困った中学生の兄は「オバケ」と呼んでいた叔母の家に連れて行った。昭和35年の春休みの事である。叔母の旦那は傷痍軍人で足が不自由であった。50回忌ではそのことも話題になり、「姉妹揃って○○○の旦那といっしょになったね」とからかわれていた。母たちにとっては従兄に当たる人だったかな。「身内は泣き寄る」というように、法事には叔母はほとんど顔を出す。今年で100歳を迎えるはずである。大正生まれの女性は長生きである。今は施設に入っているが、歩行器を使ってまだ歩けるそうである。母が亡くなった時は、後日に知らせた。確か95歳ではなかったかな。父方の従姉弟はいなかったので、母方の従姉弟だけである。4人だけなので少ないものである。生まれた時にはには既に両方の祖父母は亡くなっていた。しかし父の数え年49歳の子であったので、父がおじいちゃんみたいなものであった。ところが初めての男の子であった割には甘いところを見せない、厳格な父親だった。よく「勉強をしろとは言われなかった」と思い出話に出ることがあるが、将棋の相手をしたくないので、宿題があると断ろうとするものなら、「学校の勉強と親孝行とどっちが大事か。もう何年学校に行ってる。」と言って、子どもたちは中学校卒業で就職させようとした。父母が離婚していなかったら、私も姉も高校進学できたかどうかわからない。時代もあるだろうが高校進学のハードルは高かった。

 母には憧れの従姉がいた。○○姉さんと呼んで、姉妹のように仲良くしていた。従姉がバレーボールをやっていたので、自分も背が低いのにバレーボールをやったそうである。その頃のことだから9人制バレーボールで後衛をやっていたそうだ。従姉と五高生の恋文の橋渡しもやったことがあるそうだ。母は次女であったが、長女は幼い時に亡くなっていたので、頭娘として育てられたそうだが、どこか甘えん坊の所が有ったのかもしれない。○○伯母さんの後を追っかけまわしていたそうだ。○○伯母さんの産んだ3人の子どもたちは、皆大学進学を果たした。自分の子どもたちにも進学させたいと思っていたようである。兄は父の反対で高校進学できなかったが、下の二人は高校進学させたいと願っていたのであろう。当時はまだよくわからなかったが、今は少しは理解できるようになった。高等小学校卒業で女学校には行ってなかったが、家庭環境調査書には、「高女卒」と書いていた。私たちは単に見栄を張っているだけだと思っていたが、色々複雑な思いが有ったのであろう。父は仏教の専門学校を卒業していたので、「仏専卒」と書いてあった。今だったら学歴詐称でうるさかったであろうか。

 ともかく母親を典型的な大正の母親像で思うことが多かったが、やはり人一人の人生は一筋縄では語れないものである。50年以上も一緒に暮らした母親でさえこうである。知らないことが多い。トータルに直すと随分とおしゃべりをしたと思うのだが、本当に知らないことが多かった。知っているつもりだったので、亡くなった後に知らないことが出てきたりする。あれはどういうことだったのか、あのことはどういうことだったのか、色々考えたりする。しかしもう尋ねることは出来ない。「死」というものも改めて考え直している。私は「死後は無で、何も残らない」という考えは取らない。非科学的と言ったりするが、それこそ非科学的と言えると思う。死後のことは何もわかっていないのが現状である。「輪廻転生」も仏教界だけのものではない。イエス・キリストも復活したではないか。噓だという証拠もない。「信じるか、信じないかはあなた次第です」と言うのは正鵠を射ているのかもしれない。

 兄嫁が亡くなって一月余りになる。身内の死と他人の死についてはやはり感じ方が違うものである。他人の死は日常茶飯事である。どうしても麻痺している。身内はそんなに多くないので、「非日常体験」になる。今一番感じるのは、「謙虚になる」ということかな。そしてどうしても親不孝だったなと思うのは、結婚しなかった事よりも子孫を残さなかったことである。今からでは遅いので、後悔しかないのであるが、何故本気で考えなかったのだろうかと思う。遺伝子を残すことがそんなに大事かと思われるかもしれないが、「それはわからない」としか言いようがない。宗教でもそうだが、「わからないことに対して謙虚ではなかったなあ」ということである。「わからない」とすぐに否定的になってしまう。態度としてはあまり良くなかったと思う。未来永劫わからないかもしれないし、近い将来わかるかもしれない。生意気にも現状で自分勝手に判断して、こうだからとしてしまう。日常の生活の中では忘れていたことも、非日常的な事があると思い出されることもある。もっともっと何事に対しても「謙虚」であるべきだったなと思う今日この頃である。母の5度目の祥月命日にて。合掌