日本に於いては江戸時代に部落差別は定着化したと言われていた。しかし平成の後半になってからは、「部落差別の歴史」については諸説が生まれて、現在では定説はない状態のようだ。私が不勉強で定説はあるという人もいるであろうが、私の現在の認識では「諸説あり、定説はいまだ定まらず」である。「部落は無かった」と言う人もいるが、私は「部落の存在」は否定できないと思っている。問題は差別意識と差別の実態であると考えている。一番大きいのはやはり職業差別であろう。「職業選択の自由」がなかった時代である。大きく分けると武士階級の仕事と町に住む商工業者の仕事、そして農村に住む農民の仕事である。それらに属さない仕事もあったのであろう。死牛馬の処理や罪人の処刑、糞尿の処理は農民もやっていたというので、「カムイ伝」の知識は誤っていたのかな。「血の汚れを忌む」という文化は古代からあったようである。だからであろうか血を見る仕事は敬遠されていたようである。その結果最下層と考えられる貧民に押し付けられたようである。他に仕事がなければやるしかない。「職業選択の自由」がない時代においては、先祖代々引き継がれてしまったのではないだろうか。恐らく戦国時代は人々の移動が激しかったと思われる。その結果として「職業選択の自由」がかなりあったのであろう。兵農分離がなされていなかった時代である。百姓から武士に成りあがり、天下を取った人物も出たりした。江戸時代には「兵農分離」が進み、「刀狩令」などで農村の非軍事化が進んだ。同時に農民の定住化が進んだ。悪く言えば人々を農地に縛り付ける政策であった訳である。江戸に流入する「無宿人」を故郷に戻す政令が何度も出されたようだ。江戸や上方に行けば、何か仕事にありつけると考える人々は多かったため、特に飢饉などの時はやむを得ず故郷を離れる人々は多かったはずである。座して飢え死にするよりは、動いて生き延びる道を探すのは当然のことである。しかしそれは支配階級の人々には不都合なことが多い。そこで江戸時代は非人部落が多く誕生したのではなかろうか。町外れには「非人部落」が、農村には「穢多部落」が多くなったのではなかろうか。暮らしに必要な仕事で、あまり人がやりたがらないような仕事が回ってきたのではないだろうか。差別意識で接するようになるのは、いわゆる「水飲み百姓」と言われる人々であろう。暮らしぶりには大差がないのだから、居住地や仕事の内容で差別したのであろう。いつの時代でもピラミッド型の構成になりやすいので、農民の中では地主層より小作人層の方が多かったであろう。大貧民はそう多くはないので、勢力では小作人層の方が多かったのではないだろうか。差別意識は助長されるのである。そこに武士階級の思惑があったかどうかはわからない。しかし百姓一揆は怖いので、その鎮圧に利用したことは考えられる。ますます対立を煽る訳である。服装等での縛りもつけて固定化を図るのは支配階級の常であろうか。

 明治になって、天皇の下で他は平等であるという形になったが、多くの人にとっては不満の元である。「不平士族の反乱」は明治新政府にとって悩みの種である。戸籍では「士族」「平民」「新平民」が生まれた。町では「元士族の誇り」という者が増えたのであろう。「士族の商法」で失敗をして、貧しい暮らしを余儀なくされた人々がいっぱい出たであろうから。農村では「元地主」や「元庄屋」の株が上がったことであろう。「戸籍を汚す」という考えは、江戸時代そのものにはあまりなかったと思う。養子縁組などは武士でも商家でも多かったようだから。明治以降に多くなったと思われる。服装も自由になったのだから、服装には貧富の差は出ても、平民と新平民の差は出ない。「いくら豊かになったと言っても元部落のではないか」という陰口が叩かれる。外見上の差が出ないので、噂という形で「陰口、悪口」が囁かれる。子どもは親の真似をする。学校でいじめが出て来る。日本が近代化する上での「負の遺産」になったのであろう。「いじめの口実」は何でもいいのである。「転校生」であってもいいし、軍隊では「新兵」ということで「いじめの対象」になった。

 朝鮮人差別も、外見上の差異ではないだろう。「朝鮮人部落」という言葉がある。「部落差別」の転用ではないかと思う。「差別の拡大再生産」である。戦後は「在日朝鮮人、在日朝鮮人」あるいは「第三国人」という言葉が生まれた。日本政府の責任は重いと思うが、どうも「差別」を煽る人々がいるようである。「差別を食い物にしている連中」がいるようで仕方がない。ある意味で、「戦後はまだ終わっていない」のである。昭和から平成、平成から令和と時代は移り変わって行こうとしているが、やはり「戦後はまだ終わっていない」し、明治以降の近代化も終わっていない。私は自分のことを「心情右翼、思想は左翼」と規定しているが、この場合の左翼は「共産主義」を意味していない。「急進的」とでも表現した方がいいのかな、明治以降の新政府が進めた近代化政策は、失敗したものも多かったと思う。GHQの政策は良いものもあったと思うが、やはり日本の「国体護持」という点では、次第に破壊されていると思う。欧米化=近代化と言うのは、誤りだと思う。日本的に近代化を進めるべきだったと思う。「天皇制廃止」がいいのか、「天皇制維持」がいいのか、もう喫緊の課題になっている。以前は自然に任せるしかないと思っていたが、やはり何でも守ろうとしないと維持出来ないと思うようになった。存続のための条件を考えるべきである。今更「一夫一婦制」を廃止するわけにはいかないという議論もあるが、キリスト教信者の形骸化した制度の見直しは行ってもいいと思う。男尊女卑の考えも、戦争を前提にしているのだから考え直した方がよいと思っている。日本は長く女尊男卑型の社会であった。平和が保てていたのは、四方を海に囲まれていたというのが大きいと思う。戦争をするとなると力が強い男性優位の社会になるのは仕方が無い。しかし現在軽量小型化した武器を使用するようになって、兵士は男性専門ではなくなった。既に男性優位は崩れてしまっているのである。生物学的に見ると完成形に近いのは、女性の方であるという。少なくとも平和な社会においては女尊男卑型が当たり前のような気がする。「男女平等」は女性の為ではなく、男性の為に叫ばれなくてはならない。そんな気がする今日この頃である。