共産主義思想について耳にしたのは、中学3年生の時ではなかったか。社会科の科目は1年次は地理、2年次は歴史、3年次は政治経済社会だったと記憶している。高校になると1年次に地理というのは変わらないが、2年次が2科目になって倫理社会と日本史、3年次が政治経済と世界史だったと記憶している。2年次の倫理社会の先生は「赤ちゃん先生」と呼ばれていた。小学校6年生の時の担任も真面目な先生ではあったが、日教組に染まった教育をしていた。昭和30年代であった。私の高校時代は昭和42年4月から45年3月までであった。2月下旬から受験の為に上京していたので、高校の卒業式は出なかった。だから高校の卒業式は初任校のS高校の卒業式が初めてであった。開校4年目で2回目の卒業式だった。結構その時は感激した憶えがある。昭和55年3月の出来事であった。時代に左右されないと思っていたが、やはり人間は時代に左右されるのが当たり前なのであろう。守りたいものがあるが守り切れないのが「時代」になるのであろう。

 進化論の影響は根深く、共産主義思想にも色濃く反映していた。資本主義社会は腐敗堕落して崩壊していく。その後に共産主義社会が樹立されるのであると教えられた。原始共産社会なども紹介された。まるで桃源郷みたいな村社会がイメージされていて、未来における共産主義社会の到来は望ましいことのように思われた。高校では「倫理社会」の時間に教えられた。資本主義社会は現在の社会だから、中学高校生でも、現代の資本主義社会はどうもあまり良くないぞとわかる。何せ悪いことはこの世に満ち満ちているのだから。具体的な例は枚挙に暇がないほどである。その頃ソ連を中心とした共産主義国家は拡大の一途であった。アメリカは「ベトナム戦争」などの海外での軍事活動は評価されていなかった。マスメディアも一方的にアメリカの軍事活動を非難していた。時々伝わってくるベトナム戦争における悲惨な出来事は、ますます反米派を増やしていった。それに比べてソ連などの情報はプロパガンダの情報ばかりだったようだ。中華人民共和国の毛沢東は神様扱いになるし、キューバのカストロ首相は革命の英雄であった。人間の業績は言っていることよりしていることで評価すべきなのだろう。残念ながらしていることは、外国には伝わらないものである。1960年代後半から1970年代後半の、学園紛争の時代は反米親ソが正義のようだった。資本主義は悪である。確かに悪の側面は一般大衆にもわかりやすく伝わった。学生たちは社会に出ていないので、つまり労働者ではないのでどうしても過激になりがちである。しかし内ゲバが続き、連合赤軍の騒動が大きく報じられると、失望感が蔓延した。世の中を変えようという動きは、個人的な幸せ追及に姿を変えていった。問題は何も解決していないのに。ソ連や東欧の実情やチャイナの「文化大革命」の実情などが漏れ伝わってくる頃には、ノンポリだった学生も、デモなどに参加していた学生も、社会人として働き始めるようになっていた。一部の過激派学生たちはまだ闘争を続けていたようだが、孤立無援の戦いになっていくにつれ、人々の賛同を得られるようにはならなくなった。基本暴力革命を是認していたからな。罪もない地主や資本家たちを断罪していき、場合によっては勝手に死罪にしていた。例えるならば泥棒していたからと言って殺しもいいという理論にはならないのではないかということに気が付き始めるのである。「階級闘争」という言葉も懐かしく感じる。搾取する地主・資本家階級と搾取される農民・労働者階級という訳である。搾取される側は暴力を使ってでも搾取する側を倒してもいいという訳である。随分と乱暴な言い分だと思うが、それがまかり通っていた時代があったのである。

 共産主義社会が今でも力を持っているのは、生産と分配の考え方であろう。生産はともかくとして、分配の理論は理想論であった。「平等無差別に分配する」のである。「働かざる者食うべからず」ではなくて、働けない者もいるのだから、「必要に応じて分配する」ということになった。能力の有無や働きの違いはひとまず置いといて、その人が必要とするものを分配するというのである。これは魅力的であった。しかしこれは生産量の拡大について無知だと、騙された形になっていくのである。人間一人生きていく分はそうたいした量ではない。機械化などが進むと生産量は飛躍的に向上して、必要量を上回っていく。余剰生産物をどうするか。発展途上国に無償で提供するかと言うとそうではない。共産党幹部の懐に入っていくのである。ソ連で起きたことが露わになると、一般国民はあまり働かないし、幹部たちは私腹を肥やすばかりで、腐敗堕落していくのである。それでも一般国民がきちんと食べていければ、あまり問題にならなかったと思うが、貧富の差が露骨になり、子孫が不利益を被るようになると、黙ってはいられなくなる。周りが貧乏人ばかりだと、あまり貧乏ということに不満は出ないものである。恐らく北朝鮮がそれにあたるのかなと思っている。自由な移動や旅行が制限されるのは、自分たちの現状に不満を持たせないために重要なのであろう。よその世界を知ることは、統治者にとっては不都合なことが多いものである。

 日本は資本主義社会なのだが、社会主義的政策が多く、社会主義的制度がかなり多いので有名である。生活保護や医療保険の充実は、資本主義社会の中では一番であろう。一時期公務員や準公務員が多くて、国家財政や地方公共団体の財政を破綻させるまでになっていた。小泉純一郎首相が郵便局の民営化を推進したが、今ではびっくりするぐらい郵便局の対応が良くなった。昔の市役所や公営の施設の職員の横柄なことは腹が立つことばかりであった。今では随分と良くなった。

 この文章を書こうと思ったきっかけは、共産党の市議会議員の広報誌を読んでのことである。保健所の統廃合を今からでも反対しようというのである。政令指定都市の保健所は福岡市以外は大都市の横浜市でも一つである。福岡市は各行政区すべてにあり7つである。政令市の保健所の数は26であるが、政令市は今では20もあるのである。20市で26の保健所である。この数を見ても福岡市の異常さがわかる。それを「日本共産党は、一元化の真の狙いは合理化、人員・経費削減に他ならない」と追及したそうである。今時「合理化反対」で共感されると思っているのであろうか。「人員・経費削減」は当然のことである。逆に今まで何故放置していたのかが問題である。「一元化反対」が保健所の立地条件やサービス低下が起こらないかなどを争点とするならば、考えようもあるが、「人員・経費削減」が反対の理由ならば、「既得権益の死守」という共産党の私腹を肥やすための言い分である。各区に一つ保健所があることは一般市民にとってありがたいことである。しかし人員は公務員だし、経費は税金で賄われる。無尽蔵に税金を取り立てるとしたら、反乱が起きるに決まっている。民主主義での反乱は、有権者の投票行動である。暴力で反乱を起こすわけではない。マスコミは有権者の投票の結果を尊重しなければならない。そのために報道の自由があるはずである。次第に腹が立ってきたのでここらでやめることにしよう。ともかく共産主義は今や一神教に近いものになっている。狂信的な集団にならないことを期待している。