令和6年も2月に入った。数え年で74歳になったが、文字通り「光陰矢の如し」である。父が亡くなったのは満年齢で73歳、享年74歳である。父が亡くなった年齢になった。私が満年齢25歳の時に父は亡くなった。その時父の亡くなった年齢を目標に生きていこうと思った。人生の序盤だと感じた。大学3年生の時であった。前年に2番目の姉が亡くなっていた。私大の夜間であったが、大学を卒業しようと思った。それまでは大学に失望していて、卒業はどうでもよくなっていた。しかし初めての身内の死に出会い、大学を卒業してきちんと就職をしようと思った。娘の死を前に父が泣いていた。私が見た父の涙で、最初にして最後になった。葬式に際しては「親戚は泣き寄る」というが、この時初めて家族親族を実感した。離婚結婚などはあったが、身内の死というのは初めてだったのである。私が生まれた時は、父方も母方も祖父母は亡くなっていて、幸いなことに3親等内の血族の死には出会わなかった。父の弟も、母の妹も健在であった。身内の死がこんなにもショックな出来事とは思わなかった。

 27歳で正式に就職した。人生の中盤が始まったと思った。55歳で退職した。人生の終盤戦に入ったと思った。母はまだ要介護1の認定で、動き回ることが出来た。57歳で母が脳梗塞で倒れ、要介護5になり、障害者1級になってしまった。約2年の間にもっと色々なことが出来ただろうにと後悔した。結局は一度だけ釜山に姉と一緒に行っただけで、母の新婚の地である大連には行くことが出来なかった。大連の事はよく話してくれていた。寝たきりになり、認知症の方はかなり進んでしまった。あまり私の事を息子と認知してもらえなくなった。約半年のリハビリテーション病院入院後、自宅介護に切り替えた。ケアマネージャーさんの勧めもあり、施設に入所することになった。母は89歳になっていた。自宅介護が上手くできなかったことを後悔した。人生の終盤も後悔から始まった。施設には約8年半入所していて、数えの99歳で母は息を引き取った。母にとっての長男、次男、娘夫婦に見守られての死であったので、これは良かったのではないかと考えている。あと1カ月余りで令和になる時であった。大正昭和平成と生きた人生であった。生きていたら満103歳になるのかと思った。

 今朝も母の夢を見た。笑っている顔だったので良かった。母とは約50年一緒に住んでいた。私が上京していた8年以外は、Jターンで就職して4カ月は1人暮らしだったが、後はずっと同居であった。60代、70代の頃は幸せそうだった。よく笑顔であった。しかし後で姉にこぼしていたそうだ。私がどこにも連れて行かないと。私は平日はもちろんのこと、日祭日も家を留守にすることが多かった。「テニス狂い」と称して、姉にこぼしていたそうである。まあ切りがない話だと思っているが、大正の母だと感じている。息子にはあまり愚痴は言わなかった。たまに一緒に歩いている時には、私の持っている荷物を奪って、自分で持つ母親だった。そういえば、足が悪かった父親は杖を突くだけで荷物は持っていなかったな。母親が荷物は持っていたなと思い出した。そこはいいよと言って自分で荷物を持つべきだったなと。むしろ母親の荷物を持つぐらいじゃないといけなかったかと。しかしその頃は男に荷物を持たせてはいけないと思っているのかなと勝手に思い込んで、母親に荷物を持たせていたな。流石に80を過ぎてからはそんなこともなかったが。

 自分が70を過ぎて体力が無くなってから実感するのだが、食後の後片付けや、洗濯物の取り込みや、布団干しなどは手伝ってもらいたかっただろうなあと、つくづく後悔する。家事全般を結局は押し付けていたのではなかったかと。夜中に居眠りから目覚めて、台所の流し場に寄りかかりながら、食器洗いをしていた姿を思い出すと涙が出そうになる。自分で家事をするようになって、高齢者の家事労働の大変さを身に染みてわかるようになると、自分の勝手な思い込みが、本当に親不孝だったと感じるようになった。そして結構親不孝なシーンを思い出すことが多くなった。認知症が酷くなって、私のことを父親と間違えるようになったのは、家の中の私は父親とあまり変わらないような存在だったのかなと思い始めた。傍若無人な父親とイメージがダブっていたとしたら、尚更辛いものがある。

 最近人生何周目という話しが話題になるが、人生をもう一度やり直すとしたらどこからやり直したいか考えてしまう。最初のころは人生の序盤の小学5年生や中学2年生の頃を思い浮かべていたが、今は人生の終盤戦の55歳からやり直したいと思う。母親にはもう少し違った接し方が有ったのではないかと。このまま人生が終わったら後悔ばかりの人生になってしまうなあと。