先日、ブログを読み返していたら、「大人を馬鹿にする子どもだった」と記していた。本当は大人だけではなく、周囲の人間ほとんどを「馬鹿にしていた」ようだ。周囲の大人と言うと「両親と学校の教師」になる。近所の人とはあまり交流がなかった。小さい時から近所の年上のお兄ちゃんと遊びたがる子どもだった。そのせいか、生まれつきなのか、早熟な子どもであった。

 父は自分の妻子を捨てて、未復員軍人の妻であった私の母のもとに「もぐりこんできた(母の言葉による)」のである。幼子を抱えて一生懸命に働いている私の母を見初めたのかもしれないが、どうもそんな感じではなかった。父の浮気の話は母からよく聞かされた。短気な父はよく暴力を振るった。食事中、仏頂面の母に腹を立てて、皿茶碗を母に投げつけて、母が逃げていく姿をよく見かけたものだった。実際はそんなに多くは無かったのかもしれないが、強い印象だけに色濃く記憶されたのであろう。母が家出することも度々だったように思うが、これもそんなに多くは無かったのだろう。小学校3年生の時、母親が兄だけを連れて家を出て行った。年子の姉と二人で、母と兄の後を追ったが、小学校の校区を出たあたりで、兄が石を投げてきて、家に帰らざるを得なかった。種違いの兄だが、憎くて石を投げて来たのではないことはわかっていた。これ以上ついてくると迷子になると思って投げてきたのはわかった。中学3年生の兄は分別もあり、母の役には立つが、私たちは足手まといになるだけである。当時はわからなかったが、恐らく母の妹の家に行ったのであろう。母も両親を亡くし、兄弟姉妹は妹だけである。「オバケ」と呼んでいたが「叔母家」の事だったのかな。母は兄を頼りにして、父は姉を猫かわいがりをして、私は両親の愛情を十分に受けないで育っているという感じであった。家庭内でも「孤独」を感じることが多かった。小学校5年生の時、母と口論になり、「ああ駄目だ。俺の言うことをわかってくれない」と強く思ったことがある。父の言葉の端々には良い言葉も交じっていた。当然である。出典が仏教の経典や四書五経に有ったのだから。褒められた父親ではなかったが、怖い父親だった。昔TVドラマで「おやじ太鼓」というのをやっていたが、「おやじそっくりだな」と母や姉と一緒に笑ったものである。その頃は母が子どもの転校を嫌がり、単身で赴任と言うか、「家移り」を繰り返していた。父は仏教の専門学校を出ていたので、「布教師」という資格を持っていた。住職不在の寺などに赴いて、一定期間住職を務めたりしていた。私自身は山口に住んでいた頃の思い出しかないが、姉は度々呼び出されていた。姉はその頃の話はしないが、要するに炊事洗濯掃除に女手が必要だったのであろう。今となっては良かったと思うしかないが、当時は「やはり俺は必要とされていない」という思いの方が強かった。

 小学校の5、6年生になる頃には、担任の先生を馬鹿にするようになった。子どもの目から見ても、知識不足だったり、考えが偏っていると感じられた。男性教師が担任になったのは3年生の時だけで、転校してきた私に代本板と言って、図書室で本を借りれるようにしてくれたことを思い出す。4年生の時は、授業中おしゃべりをしていたら、いきなりビンタされて、その後水道場で頬をハンカチで冷やすように言われた。女の先生だったが、少し泣いていた。「女は泣かせちゃいかん」というのは、泣かせてばかりの父親の言葉だったかな。それからは授業中の私語は減った。勝手に教科書や資料集や、借りてきた本などを呼んでいた。授業は最初の5分も聞けば、大体理解した。そんな授業をしている担任を馬鹿にするようになっていた。

 しかし小学校の頃はまだましだった。中学校になるとどうやら顔に出るようになったようだ。小学校の担任は通知表は悪いがクラス一の成績である事は分かっていた。「理解力、記憶力は抜群であるが、判読し難い。云々」というのが、定番であった。成績がトップなので、最初は褒めているが、後は非難ばかりである。わかりやすい字が下手なことは毎回指摘された。こちらも意地になって故意にあまり読めない字を書いていた。日記をつけているので、それを読まれても内容がわからないように勝手な崩し字にしてしまったのである。後年この崩し字は、生徒たちを苦しめることになる。ひいては私自身も恥をかくことが多かった。しかし習字をする気にはなれなかった。「三つ子の魂百まで」ではないが、習字をすることはなんだか負けた気分になったものである。大人になって、五木寛之がエッセイで、先生の字を見て習うのが普通だが、先生に習うより先に字が書けるようになると、我流の為に字が汚くなると。ゆっくり丁寧に書くと、頭の中に浮かんだ言葉が逃げてしまう感じになる。速記を習いたいと思ったことはある。逃げてしまわないうちに書きとどめたいという気がする。言い訳なのかな。

 中学、高校と社会科教員にロクな思い出がない。いい加減なことを教えやがるという気持ちが強かった。国語教師にも腹を立ててた。その解釈は間違っているだろうと思うようなことを堂々と述べる。中学3年生の時に独り言のように、国語教師が間違っているとつぶやいたら、それに賛同してくれた同級生がいた。小学校6年生の時、同級でクラスで2番の男の子であった。高学年では女子の方が成績が良いのが普通だから、珍しいなと思っていた。その男子が中三でも同じクラスになっていた。その頃はクラスで1,2番を別の男子と争っていた。私は高校進学はしない予定だったし、成績には関心がなかったので、勉強は全然していなかった。しかしその子は憶えていてくれていたのか、国語教師の悪口で盛り上がった。その後終生の友人になった。

 極めつけは中二の数学教師である。授業中考え事をしていたら、注意してきた。それで質問したのだが、答えてくれなかった。後で一学年上の姉を呼び出して、「お前の弟はどうなっているのか」と詰問されたらしい。それを聞いて国語社会だけでなく、数学理科も嫌いになった。答えがわかっているものに興味はなかった。中三で仲良くなった友人の元を訪ねると、廊下の隅などに本が列をなしていた。部屋に入ると、父親の描いた風景画が貼ってある。蓄音機でクラシック音楽を聞かされて、その後ギターで「アルハンブラ宮殿の思い出」などを聞かされて圧倒された。自分以外の人間で「天才かも」と思わされた事件で有った。その後度々訪れるようになったが、その優秀さに驚いたことであった。

 田舎では学校の成績が良いか、囲碁将棋で強い少年を「神童」ともてはやす。「わが村の神童」というわけだ。悪気はないのだが、もてはやされた少年はまともな努力をしない傾向があるようだ。「10で神童、15で才子、20過ぎればただの人」となってしまう。中には努力を重ねて文字通りの天才になっていく人もいるのだが、圧倒的多数は「ただの人」になるのである。学校の成績は順番をつけるのでどうしても一番は出る。小さな村では村一番の秀才になるのである。囲碁将棋でも「田舎初段」という言葉がある。いくら村中の大人たちを負かしても、所詮は「田舎初段のレベルである。囲碁の院生や将棋の奨励会員にはそうした「神童」が集まるのである。学校の成績も良い子が多いのだが、その中に入ると、学校の勉強は二の次である。私は当然だと思うのだが、世の親は「遊びに現を抜かしている」と判断する。囲碁将棋の実力に年齢は関係ないのだが、年少者がもてはやされる。天才度が違うということだろうか。しかし灘高校や開成高校に進学するのと同様の効果はある。努力しないと勝ち抜けないのである。問題はその後にあるのである。今この年になってみると、避けてきたと思っていたが、逃げていたのではと思う。天才になることの努力を放棄したのである。教員になってから何年目だったかな、例の友人に言われた。「天才になるのを諦めたの」と。彼も東京から故郷に舞い戻っていたので、もう芸術家になるのは諦めたのかなと思っていた。しかしどうやら諦めていなかったようである。父親は日曜画家から普通に「画家」として周囲の人からは認められるようになっていた。彼は音楽は聴く側になったようだが、美術の方はもう何年先も制作予定がはいっていると語っていた。認められるかどうかは二の次で制作時間が取れるかどうかが大事であった。制作したい作品はあるが、作品を完成させるまでの所要時間は物理的にあるので、その時間の確保が難しいと言う。有限の人生で作品を制作し、完成させるのは大変である。私自身は何も完成させたものがないことに気がつく。一時期は「無上法」の完成などを妄想したが、とても自分には出来ないなと思うようになった。体もいうことを効かなくなり、時間もあと数年かなと思うとますます何をしていいかわからなくなる。愚痴っぽくなったので今日はこれまでにしたい。「令和の天才」の勝負を見ようと思う。