前回の「一夫一婦制」についてを読み返してみた。どうも脱線みたいのが多く、真正面から語っていないような気がするので、しつこいようだが第3弾を書いてみる。脱線しないように気を付けよう。

 「一夫一婦制」をキリスト教の影響だろうとしたのは、間違いではなさそうだ。実際にイスラム教の影響下では「一夫多妻制」とでもいった方が良いが、しかし実際は一夫一婦が多いそうだ。二人以上の妻を持つことが出来る男性は少ないらしい。平等に二人以上の妻に接することも難しいようだし、経済的負担も倍以上になるのだから、なかなかいないのは無理はない。

 では日本ではどうであろうか。平安時代の書物を読むと、夫が自分を訪ねて来ないので、寂しい思いをしていて、一人息子に愛情を注ぐというような場面もある。友人に話したら「それは貴族の話だろう」と一蹴されてしまった。江戸時代の東北地方の話だと思うが、「夜這い」の風習があったそうだ。「よばい」は今では「夜這う」と書くが、元々は「呼ばふ」からきているらしい。つまり男が女の名を「呼び続ける」らしい。「呼ばひ」ということらしい。男が女の元に押し入って無理矢理と言う感じではないらしい。今で言う「不同意性交」ではなかったらしい。女は自分の名前を簡単には教えなかったらしい。貴族の方では女性の名は父親と夫しか知らなかったらしい。「右大将道綱母」とか「菅原孝標女」と呼んで、「息子の母」とか、「父親の娘」とか称していたらしい。このことを元に、男性の付属品としての存在だったという女性がいるが、そもそも名を教えないのだから文献に残らないのである。男性も皆名前が残っているわけではない。通称は有ったであろう。太郎とか次郎とか三郎とか。「九郎」で有名なのは源義経である。「源九郎判官義経」と呼ばれる。「判官びいき」はこれから来ている。おそらく名前を明かすと悪いことに使われたりする恐れがあるせいであろう。お願いの時に名前を言ったりするが、呪いをかける時も名前が使われるのである。「名は体を表す」はまた違った意味をあらわすのであるが、本人の代わりに名前を言ったり、名前を記したりして、呪いをかけるのである。今でも匿名が流行るが、おそらく伝統的なものが関係している。犯罪者の名を晒すこともよく行われていた。「汚名を残す」とか「名を汚す」とか言ったものである。今ではあまり使われることが少なくなったが、「親の名を汚すな」とはよく言われたものである。

 婚姻制度は慣習的なものが多く、「制度化」するのは難しかったのではないかな。最近違和感を持つのは、戦国時代や江戸時代の大名や武家の結婚を「政略結婚」と言ってしまいがちであるが、抵抗感を持つのはおかしいのかな。親同士の思惑で決められるので「政略結婚」と呼ぶのかもしれないが、それだと「見合い結婚」も「政略結婚」の一種ではないかと考える。結婚は家同士の結び付きを強調するが、それが当たり前だったのである。なぜならば一人では、そして二人でも生きていけなかったからである。

 平安貴族の結婚形態を「通い婚」とか言ったりするが、男女が一夜を共にして、男女の契りを結んだら、それは結婚だったのである。今で言う「事実婚」に近いニュアンスがあるかもしれないが、一晩であっても「一夜妻」となるわけである。事実婚があっての後の「結婚披露宴」である。男性に何人も妻がいるのは普通だったのである。ただし「家との結びつき」でもあったので、気に染まなかった妻に対しても、それなりの対応をしなければならなかった。藤原道長の栄耀栄華も娘の入内抜きには考えられないのである。藤原家と天皇家の婚姻関係が1400年も続いたのが、「摂関政治」と悪口を言われながらも、ずっと力を持ったわけである。藤原定子や彰子と名前が残っているのは、中宮皇后になっているからである。

 さて庶民の結婚形態として、「夜這い」に話を戻そう。「夜這いの対象者」は後家さんが多かったそうである。する方は農家の次男三男が主だったそうである。「一婦多夫制」とは呼ばなかったらしいが、一人の女性が多くの男性を受け入れることが出来たそうである。大体動物の世界では雌の側に選択権があり、雄は必死になって受け入れてもらえるように頑張る訳である。以前にも触れたことがあるが、人間の赤ちゃんは何故出産時に大声で泣くのか、生れてからも大きな声で泣くのか。そこに赤ちゃんんの存在を知らしめるのは、他の動物ならば、餌になる存在を教えることになるので危険な事なのに、人間の赤ちゃんは大きな声で泣くのが普通である。それは他の人に世話してもらうためである。共同体の一員として生まれるためである。泣く子をあやすのは、母親だけではないのである。核家族になって泣く子をあやすのは母親の役割になってしまって、本当に育児が大変なものになってしまった。「泣く子は育つ」は昔の話になってしまったのである。本当は父親がその役割を担うべきなのだが、核家族自体が男性側に有利になっているので、父親はしないことになっている。キリスト教では男のあばら骨から女は出来ているから、「女尊男卑」が当たり前なのである。欧米でウーマンリブ運動が盛んになり、女性解放が叫ばれたのは、それだけ女性が虐げられて、差別されて、自由を奪われていたからである。専業主婦を貶めているのは女権拡張論者が多かったようである。確かに現代の専業主婦は時間的にも余裕があるように見られているが、男でも女でも社会人になって、働き始めると大変である。資本主義社会になって労働者の搾取が当たり前になると、仕事場が生活の大半になってしまう。昭和30年代前半、我が家は5人家族で収入を得る働き手は父親1人であった。後半になって家族が4人になり、母親も外に出て働くようになった。貧乏ではあったが、不幸だとは思わなかった。個人的には父親が帰宅して将棋の相手をさせられることが苦痛ではあったが、それは自分の自由な時間が無くなるからであって、不幸ではないと思っていた。兄に言わせると「将棋の相手をするだけで何もせんで良かったのだから」となる。幸不幸は主観的なものであり、絶対的なものではないので、人生の大事なものにしてはいけないと思ったものである。

 「一夫一婦制」が不幸の源のように感じたのは、持続可能な制度かと考えたところである。男性が若い女性を好きなのは、妊娠確率の問題なのであろう。本能に根差しているので仕方がない面がある。性衝動の面で言うと、若い女性を守るのは大変である。欧米の白人社会では、抑圧された性が歪んだ性になり、変態が多いそうである。昔はHと言うと「変態」の意味であったが、いつの間にか意味が変わったようになったが、ある意味正しい使い方になったのかもしれない。動物の世界では変態種はある一定の割合で生まれるので、ある意味当然のこととされるのであるが、人間界ではとんでもないこととされてしまった。抑圧され、差別されてきたのである。そこからの解放運動なのだから、それなりに理解しなければならない。しかし絶対的なものではない。欧米では「労働」は一種の罰であると認識されている面があるそうだ。日本では「働くは傍を楽にさせること」と言われたりする。奉仕なのである。飲食店の店主が「お客さまの喜ぶ顔が嬉しいのです」というのは、ビジネストークばかりではないのである。本音を多分に含んでいるのである。ラーメンの作り方などを見ていると、随分と手間暇をかけている。材料費も高そうである。それなのに1000円前後で提供している。店の前は長蛇の行列である。資本主義の原則で言うと、需要と供給のバランスが取れていないので、値上げするのが当たり前なのに、睡眠不足を我慢して「安かろう美味しかろう」を貫いている。これでは後継者が生まれないと思うのだが、我が子にはさすがに店を継げとは言えないが、意外にも店そのものは継がないまでも、そのやり方や生き方は継ぐ者はいるというのが、まだまだ日本人捨てたものではないと思わせてくれる。

 「赤線復活」まで言うと言い過ぎであろうが、「国による性の管理下におくもの」として、反対のものも多いであろうが、戦後GHQの置き土産に対しては、すべて再考して、残すべきものは残し、廃止するべきものは廃止し、改正すべきものは改正すべきであろう。小選挙区比例代表制は、良くないと国民全体が感じているが、既得権益と思っている人々が反対しているようである。それと陰謀説ではないが、日本を駄目にしようという輩がいることは確かだな。恐らくそれな良いことだと思っているのであろう。世界の為に日本は滅ぼすべきだぐらいに思っているのかな。