私の現在の話し相手は、小学校以来の友人と姉だけである。近所に住む姉とは実際に会って話すことも多いが、友人のMとは遠く離れているので、電話で話すだけである。実際に会ったのは何年前になるのだろうか。現在は埼玉県に住んでいるが、その前は東京に住んでいた。同じ時期に上京して、私はJターンと言うのかな、故郷ではなく故郷の県の県庁所在地に居を定めた。考えてみれば同級生になったのは小学校の5年生と6年生の時だけで、2年間だけである。中学校、高校は同じ学校であるが、大学は別々である。故郷では歩いて5分ぐらいであったろうか、もう少しかかったかな、とにかく近所であった。考え方などが似ていたところもあり、電話で話すと楽しい。思い出話も多いが、政治や歴史の話も多い。

 ある時ふとしたきっかけで、「一夫一婦制」をどう思うかと質問した。「日本は違ったよな。現在の一夫一婦制はどこから来たと思う」と言ったら、「それはキリスト教国家から来たのでは」と言う。確かに「日本国憲法では一夫一婦制であるが、大日本帝国憲法でも一夫一婦制ではなかったか」という話になった。欧米に追従していた明治新政府は、憲法においてもヨーロッパの真似をした。婚姻制度でも「一夫一婦制」を採用したのである。以前は「イスラム教はいいなぁ、4人まで妻を持てるらしい」と言っていたが、自由に4人の妻が持てるわけではない事が次第に分かってきた。1人でも大変なのに、4人は辛いよなと言う話になる。

 キリスト教国家では一夫一婦制でしかも離婚禁止だったそうである。堕胎禁止もあったらしい。離婚禁止で生まれたのは、浮気黙認ということになったという。お互いに愛人を持つという話になっていた。イタリア映画なんかでは面白おかしく描いているものもあったな。私は「一夫一婦制は見直すべきではないか」という話をした。若い時の話だが、「若い時は年上の姉さん女房に食わしてもらって、年を取ったら若い女と再婚するというのは男の理想ではないのか」と話したことがあった。「生涯二度結婚説」である。何となくこの話を念頭に入れて話したのだが、Mには即座に反対された。キリスト教徒の真似ではないが「一夫一婦制がいいよ。女が可哀想だよ」と言う。私もMも父親の浮気には悩まされた子どもである。母親の苦労は見て育った。最近の世相として、専業主婦を貶めるような発言が増えている。キャリアウーマンとか言って、いかにも有能な女性をイメージさせる。家電が発達する前の家事労働の大変さが、全然想像できない人々が増えている。家電の発達が多くの家事労働から人々を解放した功績は大きいと思う。上京後20歳の私は恋人がほしいと思ったものである。料理よりも洗濯であった。洗濯してくれる彼女がほしいと思ったものである。コインランドリーが出来た時は本当に嬉しかった。私の個人の感想ではあるが、洗濯機の発明は画期的である。次に冷蔵庫かな。「炊事洗濯掃除」というが、家事労働の大変さは洗濯が一番だと思っていた。しかし炊飯器の登場を知っている世代では、炊事が軽くなっているが、毎日毎食の炊事はやはり一番大変かな。山口のお寺に昭和30年代前半に住んだ時のことを思い出すと、やはり一番大変だったのは食事の支度だったと思う。ガスも水道もなく、電気はなんとか通じていたと思うが、山の中腹にあるので、水汲みが大変である。薪も自分で作らないといけないので大変である。中学生の兄も必死である。風呂を沸かすのも大変である。炊事洗濯から比べれば、掃除は楽である。小学生低学年の私と姉も掃除は出来た。後年母が述懐していたが、「あの頃丈夫になったなったなあ」と。私は家事に関しては、我が家では役立たずであった。母は度々寝込んでいたが、思い出すと昭和30年代が圧倒的だったかな。家事もしないで、外に働きに行くのは、女の場合は楽になる方法だったように思う。当然収入は家に入れるのが当たり前だった。サラリーマンが月給を全額専業主婦の妻に渡すのは当たり前の時代であった。残念ながら私の家もMの家も、収入を全額入れる夫ではなかった。妻の苦労は大変であったろう。

 私は専業主婦を貶めているのは、キャリアウーマンと呼ばれる女性たちであると思っている。自分たちの地位向上の為に専業主婦を貶めている。確かに家電の発達で飛躍的に家事労働の大変さが軽減された。しかし無くなったわけではない。

 最初に赴任した高校は開校4年目の高校であった。進学校だったので男子生徒が多く、男子クラスが2クラスほど出来る学校であった。ところが新任の家庭科教師に話を聞いたら、家庭科専用の教室の管理が大変だと言っていた。被服や食物の他に家庭経営という項目もあった。ちらちらと家庭経営の教科書を見てみたが、男子も習った方が良さそうであった。私が中学校の頃は女子の「家庭科」の時間には、男子は「技術工作」だったかな習っていた。卒業後「技術工作」が役に立ったことはない。しかし小学校の「家庭科」で習った知識や技術はその後役に立つことは多い。1人暮らしになってからはよくそう思う。

 そう言えば私の県立高校入試の時は、国語、数学、理科、社会は各30点満点、英語は20点満点、音楽、美術、保健体育、技術家庭は各15点満点の合計9教科200点満点で合否を決めていた。教育界は自分で自分の首を絞めているような感じである。実技教科が軽視され、社会に出て数学や英語が役に立つかの話になり、英語が実用英語にシフトして、理科も物理、化学、生物、地学の4科目だったのに、今では地学は無いに等しくなりつつある。社会は我々の頃は日本史、世界史、政治経済、倫理社会の4科目だった。社会に出て役に立つかどうかや、入試科目に入っているかどうかで判断されることが多くなった。近代教育は「兵士」や「市民」の育成が目的であった。教育が社会の在り様と無縁であるわけがないが、短期間で右顧左眄するのは、いかがなものであろうか。