今朝は珍しくソフトテニスの夢を見た。「ソフトテニスの思い出」をアップしていたころは時々夢でも見ていたような気がする。今はいつまでも「ソフトテニスの思い出」にしがみついていてはいけないと思い、もうソフトテニスについてはアップしないように決めたつもりであった。ところが夢を見た。結構鮮明な夢であった。それは高校3年の春の出来事の様だ。大会前日の仕上げの練習をしていた。母校は山の中腹にある高校で、テニスコートは2面だったので男女別に1面ずつ使っていた。前衛はレシーブアンドボレーで後衛はサーブアンドアタックの練習を左側でやり、右側では後衛のみのサーブアンドラリーの練習をやっていた。しばらくすると、顧問時代の私が夢の中に現われて、これだけ集中して練習していればもう少し上達しただろうに、と思っていた。

 夢から覚めて、なんでソフトテニスの夢を見たのだろうかと思った。すると元日に届いた年賀状の中に、ソフトテニス顧問時代のSR高のS先生からの年賀状を思い出した。「私もソフトテニスの夢を見ます。N学園のH先生と共に打倒博女に燃えていた時代を思い出します」と。H先生はその後N学園を率いて全国優勝を果たした。S先生も団体で博女を破ったことがある。私は結局は団体で博女を破ることは出来なくて、個人戦で勝ったことがあるだけである。そう言えば2,3日前に姉に会って話していた時に、「テニス狂いで人生を変えてしまっただろ。でも後悔はないでしょう。好きなことをやったのだから」と。それらが影響したのかな。

 高1の夏、初めてテニスのラケットを握ってボールを打った。中学時代少しテニスをしていた友人と一緒に、確か小学校の校庭だったように思う。二人とも帰宅部であった。私は正確には文芸部に属していたが、普段は何の活動もしていなかったので、帰宅部と一緒である。2学期に入って、友人はテニス部に入った。その後私も誘われるようになった。2年生が修学旅行で1年生だけの時に練習に参加しないかと誘われた。1年生だけならばと思って、初めて練習に参加した。テニスコートでボールを打つのは初めてである。ラリーが出来るほどうまくないので、あげボールによる1本打ちである。1年生は4,5人しかいなかった。中学校からの経験者はゼロだった。友人が少しかじっただけである。しかし当時の私の目ではずいぶんと上手だと感じた。面白そうだと感じた私は結局入部することになった。二つの奨学金をもらっていた私は、今までと違って、自分の自由になるお金を持っていた。授業料は奨学金の中から払うことになっていたが、残りは自分の小遣いにしていいことになっていた。初めて買ったラケットは1700円の川崎ラケットだった嬉しかったな。しかし直ぐにシーズンオフに入り、サッカーとランニングの毎日である。体育の時間に腰を痛め練習を休むことになった。休み癖がついたのか、あまり練習に参加しなくなった。2年生の春も新人戦も私は大会に出場できなかった。新しく入ってきた1年生は皆中学時代からの経験者で、私は部内で一番へたくそであった。新人戦は9人の部員の中で私だけが出場できなかった。大会参加者でないと授業優先が学校のルールであった。大会当日土曜日だったと思うが、バスケット部の部員にどうしてお前は大会に出ないのかと尋ねられた時は、少し返答に詰まった。自分が一番下手なので選手に選ばれないのは当然だと思っていたから、応援にいかないのも当然だと思っていたから。

 新人戦が終わってしばらくしたらまたもやサッカーとランニングの毎日である。そしてまたもや体育に時間に左足首を痛めた。通院のために練習を休むようになった。生活保護世帯の為に医療費はただなので、結構病院には良く通院したものだ。整形外科に通っていた。2年連続冬場の練習を長期離脱してしまった。その時はあまり深刻には考えていなかった。3年の春になった。中間考査の関係で、九州大会と全国大会と2つの大会があるのだが、その一つを参加するか不参加にするか、部内で話し合った。意見が分かれたが結局参加は1つだけになった。団体戦と個人戦であるが、部長は個人戦だけに出るとなった。私は両方出ることになった。レギュラーだった新2年生の2人が退部したのである。3年生が6人、2年生が1人になった。新入部員は入らなかった。1番手の後衛と4番手の前衛が辞めたのである。習熟度別クラス編成をしているので優秀クラス3クラスは放課後課外があった。1番手の後衛は優秀クラスに入っていた。成績が下がっていたのだろうか、2年生になった時にやめた。卒業生に中学時代の先輩がいて、彼に勧誘されたらしい。先輩もいなくなったので決心しやすかったのであろうか。残されたのは前衛4人後衛4人で、2番手後衛が2年生だけで、後は3年生である。1人余る訳であるが、実力的には私が外れるのが順当であろう。しかしそれまでのペアの問題があった。部長は1番手前衛であることは練習の内容からしてはっきりしていたが、かと言ってそれまでの2番手後衛を選ぶわけにはいかなかったのであろう。部内の決定権は部長にあった。顧問が決めてくれればよいわけだが、部長が決めることになっていたので苦しかったであろう。団体戦は1番手後衛が居なくなった今、県大会出場は無理だろう。2番手のペアは県大会出場の可能性があるので、崩したくない。では3番手後衛と組むか。私が新人戦で出たことがなかったので、折角だから出場させてやろうと考えたのではなかろうか。元々の4番手後衛と組んでいたのは私だから、そのままにしてやろうと。結局1番手前衛と3番手前衛が個人戦と団体戦に1回ずつ出ることになった。私は両方に出ることになった。是非とも勝ちたいと思った。まあ部長の恩情である。お情け出場で負けっぱなしでは申し訳ないと思った。色々な事情で出場したからには全敗では終われないと思った。

 個人戦は1回戦は勝った。相手は私たちよりも随分と下手だと思ったのか、あまり上がることはなかった。2回戦の相手はうまかった。実力負けだと思った。個人戦での県大会出場はならなかった。この頃の南部地区はM工業が断然強くて、インターハイでも活躍した。1年上の先輩は県決めの試合でM工業とファイナルの接戦を演じていた。出身中学は強豪校で、レギュラーを張っていたらしくペアだった前衛はM工業に入って、インターハイにも国体にも出場していた。残念ながら私たちは先輩とは比べられない程度の実力だったので、M工業に当たる前に負けていた。団体戦の1回戦はY高校と当たった。私たちのペアは1番に出場した。実力的に言うと3,2,1のオーダーである。相手は1,2,3のようだった。相手が大将ペアと知って気が楽だったのか私の後衛が調子よかった。残念ながらファイナル負けを喫した。一番に善戦したので自信をつけた。1回戦を2-1で勝利したので2回戦に進んだ。同じ市内の私立のO高校である。O高校は3,1,2のオーダーであった。1回戦はゲームカウント2-3からファイナルに持ち込んだが、2回戦は3-2からファイナルに持ち込まれて負けた。結局0-2で負けたのだが、3番に出場予定の2年生の後衛から、私たちが勝ってくれれば2番手のペアには自信があたのにと言っていた。以前練習試合で大将ペアには勝てなかったが2番手のペアに勝っていたそうだ。O高校は県大会の常連校で後にはインターハイにも個人戦では常連校になった。

 さてこれで引退かと思ったが、2年生一人だけ残してみんな引退するわけにはいかないと、私と私をテニス部に引き込んだ友人は、しばらく残って1年生の勧誘と2年生の相手をすることになった。しかし見切りをつけたのか2年生のS君はテニス部をやめてバドミントン部に入ってしまった。テニスコートに行くよりは体育館に行くことを選んだようである。兄はM工業でインターハイに出ているのに、自分は県大会にも出られなかったのが情けなかったのであろうと噂したものである。しかし彼はバドミントンで県大会出場を獲得した。だいぶ頑張ったようである。私たちは結局10月の小さな大会に出るまでコートに出て練習した。2年生が居なくなったせいか、1年生がしかも経験者が入部して、その内1組の生徒まで入部してきた。正確な人数は憶えていないが5,6人は入ったのではなかろうか。廃部の危機は何とか乗り越えたのかな。

 姉はこの頃京都の看護学校に進学したので家にいなかったが、母からいつまでもテニスをやっていると愚痴を聞かされていたのであろう。せめて夏休みあたりからでも受験勉強を始めていればという気持ちが、家族にもあったようだ。それが高校教師になっても、テニス狂いが治らないという話になったのであろう。母の愚痴を姉は聞かされていたのであろう。しかし私はテニスがあったから高校も卒業したし、ソフトテニス部の顧問をしていたから高校教員も続けられたと思っている。テニスで嫌な思いもしたが、良い思い出の方が多い。最近の夢はテニス部の教え子の子どもが、テニスで活躍することである。親のひいき目もあるかもしれないが、自分の選手時代よりもうまいらしい。教え子の子どもは、まあ言うなれば孫みたいなものだからと都合のいいことを考えている。いい知らせを聞きたいものである。