令和6年も4日になった。3が日は駅伝詰めだった。元日の「ニューイヤー駅伝」に始まって、2日、3日の「箱根駅伝」まで長時間の生中継の録画を見た。こんなに長時間見たのは初めてである。「高校駅伝」や「実業団駅伝」「都道府県対抗駅伝」なども見ることが多かったが、「実業団駅伝」を除けばマラソン区間が多いので、2時間ちょっとのレースである。例年は元日は流石に見なかったが、今回初めて「ニューイヤー駅伝」を録画して2日に見た。少し飛ばした箇所もあったが、全区間目を通した。見知った顔や名前もあって、懐かしかった。そう言えば高校野球中継を見て、プロ野球中継も見るようになったなと、思い出した。

 昭和38年の夏、母がたまたま見た高校野球中継で見知った顔を発見した。「マーちゃんよ、マーちゃんよ。池永のマーちゃんよ」と、興奮した声で言っていた。下関商業の池永正明投手である。後に西鉄球団に入団して新人王などに輝いたが、「八百長試合」で投げたということで、永久追放になった投手である。兄とは一つ違いで遊び仲間であった。妹は私と同級で姉と遊び友達であった。今は下関市と合併した半農半漁の村で近所付き合いがあったようだ。私より先に母が野球中継を見るようになった。高校野球のファンになったのである。その延長線上でプロ野球も見るようになった。平松投手や東尾投手などがお気に入りだった。高卒投手でも1年目から活躍していたので、甲子園で活躍した投手を翌年にはプロで見ることが出来た。池永投手は1年目から20勝を上げて新人王に輝いた。堀内投手も開幕13連勝を上げた。高校生だった選手がプロになって活躍する姿に熱中していたのであろう。

 駅伝の場合は「都道府県対抗駅伝」がまず最初である。中学生が2人出場する。女子駅伝だけだったかな、ちょっと曖昧である。女子駅伝の場合はいきなり大学生や実業団で注目を集めるよりは、「都道府県対抗駅伝」や高校駅伝で注目されることが多い。80年代か90年代になってからか忘れたが、駅伝の生中継が放送されることが多くなった。おそらく視聴率が高いのであろう。駅伝好きの日本人は多いのであろう。地域や学校などの代表選手が一生懸命走っている姿に共鳴するのであろう。私の出身高校でもクラブ対抗駅伝が3学期の始業式の日に開催されていた。私が所属するテニス部は強くて、A、B2チーム出して、2位と3位を占めたりしていた。優勝チームは陸上部であった。例年はあまり陸上部が優勝することはなかったが、この時は長距離専門の選手が数名いたのである。陸上部では長距離走は不人気種目であった。野球部やバスケット部、テニス部が優勝候補であった。テニス部は冬になるとボールを打つ時間は短く、サッカーやマラソンばかりやらされた。私はクラブ対抗駅伝の選手にも選ばれなかった。短距離走は得意だったが長距離走は苦手だった。それでも体育の時間でのマラソンの練習では、次第に上位に入れるようになった。校内マラソン大会は男子は12キロ、女子は4キロか6キロだったと思う。学年別ではなく、男女別で一斉スタートである。男子が先にスタートして女子はその後スタートして、先に学校に戻っており、男子が戻ってくるのを応援するという形だったように思う。1年生の時は400番台でゴールして、少し恥ずかしい思いをしたので、2年生の時は少し真面目に練習して100番以内を目指した。男子は600人以上いたので、スタートで出遅れると、先に進めないのがわからなかった。1年生の時は後方からでも抜くことが出来なかったので、2年生でも後方スタートであった。女子が見ている中、必死の様子は見せたくないのである。誰も見ていなかったと思うが。体育の時間でも2~5番以内には戻っていたので、走力は付いていた。1年生の時と違ってどんどんと追い抜くことは出来た。体感では200人から300人近く抜いたのではないかなあと思っていた。ゴールして見たら100番台であった。がっかりした。バスケットボール部のクラスメイトに聞いたら50番以内であった。体育の時間では一度も負けたことがなかったのにと思って、悔しかった。K高坂と呼ばれる約500mぐらいの坂があるのだが、あそこを駆け下りないと上位は難しかったらしい。確かに後方は歩くようなスピードだったからな。しかもこの時は道路工事の関係で、9.8キロに短縮されていたそうだ。テニス部で走ったコースよりも短かった気がしたが、本当に短かったのである。マラソンでカッコつけたりするもんではないと知ったが、3年の時も同じような過ちをして、100番以内には入ったが上位に入れなかった。

 駅伝が日本人好みなのは、やはり所属チームを代表して走るということになるのかな。チームワーク重視の日本では、一生懸命に走ることを期待される。仲間内の一体感が結果に反映されるので、代表選手は速く走ることも大事であるが、棄権が一番駄目なことになる。それだけにふらふらしながらも、襷を繋ぐ事は美談とされるのである。国際マラソンの時、メダルが無理になった外国人選手が、簡単に棄権するのは、日本人からしたら信じられない気がする。しかし個人が大事だから、メダルが無理なら身体への負担を小さくして、次のレースの為に備えるというのは、合理的な判断なのであろう。体への負担が大きい長距離走で、メンタルがやられると、実力を十分に発揮できないのであろう。日本人は団体のためと言うか、所属チームの為に全力を尽くすのは当たり前のことなのである。帰属意識を高めるためにも、駅伝はピッタリの種目なのだろう。

 今回東洋大学が4位になった。シード権落ちも噂されていたので嬉しかった。最終区で東洋の学生が区間賞を取ってインタビューされている姿を見たら、誇らしく感じた。その昔私が現役の学生の時、東洋大学が東都大学リーグで優勝したことがあった。二部の学生の私が登校すると、祝賀パレードの後で、休講になっていた。確か久しぶりの登校だったと思う。私は不満に思ったものである。休講にするといくら授業料が無駄になると思っているのかと、心の中で計算した憶えがある。あまり大学に対しての帰属意識はなかったのだろう。しかし教職課程で単位が取得しやすいと聞いて、東洋大学を選んだのは自分自身だったのだが、当時は大学に対する不満ばかりだった。その後教員免許を取得して、教職に就くことが出来たのだが、あまり大学のおかげとか思っていなかった。その後も出身大学を意識することはなかった。ところが柏原竜二が「山の神」と呼ばれて、「箱根駅伝」で優勝するようになると、どういう訳か誇らしく感じるようになった。有名になったからか、私が年を取ったからなのか、よくわからないが、陸上や水泳で東洋大学の活躍を見ると嬉しくなった。スポーツ全般に言えるが、やはり団体競技での日本人の活躍は誇らしい。大谷翔平選手の活躍も嬉しいが、WBCでの優勝は誇らしかった。バスケットボールの五輪出場も嬉しかった。昨年は多くの種目で日本人が活躍した。帰属意識の高まりを感じる。やはり所属先が誇らしいものでなければならない。

 日本人が日本人で良かったと思える「日本の歴史」をやはり後世に知らしめなければならない。戦後の教育は間違っていたと与野党こぞって宣言しなければならない。日本は妙に今あるものを守ろうとする。国際法なんて破ってなんぼのもんだと言わんばかりの、ロシアの振舞いであり、チャイナも酷いものである。誰かが言っていた。「奴隷の豊かな食生活と乞食の自由はどちらを選ぶ」と。日本人は奴隷を捨てても乞食にはならないだろう。ある程度の豊かさを捨てても、主権を回復すべきである。米軍の駐留を許しても、自衛隊を優先させるべきだろう。その前に自衛隊は違憲なのだから、憲法改正すべきであろう。元国語教師として断言する、日本国憲法下では自衛隊は違憲である。不正を不正のまま放置していると、何が正義なのかわからない。「正義は絶対的なものではない」というが、少なくとも日本人として何が正義なのかは明らかにしないといけない。「日本の美」はよく喧伝されるが「日本の正義」はあまり主張されない。本気で「日本の歴史」と「日本の正義」を主張しないと、滅亡することになるであろう。その方が幸せと考える日本人が増えたのは困ったことである。