九州場所も11日目が終わった。貴景勝は4敗目を喫し優勝戦線から脱落した。やはり駄目だったかの思いが強い。今場所は首を気にする素振りが目立った。一度は頭で当たるが二度目はない。相変わらずはたきが多いし、大関を守るのが精一杯かなと思った。師匠の師匠の初代貴ノ花も大関止まりだった。兄の若乃花が横綱にまでなったので、弟も期待されたが、時は大型力士が次々と登場して、ちょっと無理かなと言う感じであった。横綱輪島や北の湖がいたので、優勝も至難の業であった。息子の兄弟は両方とも横綱にまでなったが、両方とも協会にはいない。十両の貴健斗も幕下落ちになりそうなので、「貴」のついた力士は早晩いなくなるのかな。貴景勝には大関陥落したら引退してほしい。最近は元大関が多過ぎる。「あれ、この力士は元大関だったかな」と思うことが増えた。恐らく「年寄株」取得が上手く行ってないせいであろう。横綱大関にならなくても三役を長く勤めていると大体引退したら「年寄株」を取得して親方になっていたものである。今は名前もよく知らない力士が親方になっている。

 私が大相撲を知ったのは、家にというか、お寺に「歴代横綱一覧表」みたいなのがあったからだ。初代横綱から45代だったかな、若乃花までが載っていた。古い横綱は肖像画みたいなもので、近代になってからは写真になっていた。もちろん白黒写真である。横綱双葉山が太刀を持って映っている写真は、かっこいいなと憧れたものである。兄は一時期中学校の相撲部に属していた。私も将来相撲取りになりたいと思ったものである。出身や部屋の他に身長体重も載っていたが、それが尺貫法であった。6尺以下の横綱も多かった。「百貫デブ」という言い方があったが、40貫にも満たない横綱が多かった。因みに40貫は150kgである。江戸時代などにはずいぶんと巨漢力士もいたが、明治以降はあまり大きな力士はいなかった。

 昭和33年4月に小学校入学以来、同級生とよく相撲を取っていた。学校には土俵があったが、土俵は上級生が使っていたので、主に地面に線を引いての土俵で、相撲を取った。その頃はTVはあまりなくて、相撲中継はちょっと離れたところにあった床屋さんで見ていた。毎日見れるわけではなかったが、横綱の栃錦や若乃花は人気抜群であった。大関で巨漢の朝汐も人気があった。長嶋茂雄選手が巨人に入団して、大活躍してプロ野球人気が高まったが、その頃は圧倒的に相撲が人気だった。プロレスというものがあり力道山と言うプロレスラーが人気だと、人づてに聞くが、田舎のTVでは中継がなかったか、夜遅くの中継だったか、その頃は見たことがなかった。「3番サード長嶋」というのは、耳に馴染んでいたので、野球中継は見たことがあったのかな。船主の息子の所にTVを見に行ったことがあるが、あまり足繁くは行かなかったようだ。気に入らないことがあったのかもしれない。この頃元西鉄の池永正明投手は小学6年生で、兄より1級下であったが、相撲は兄より強かった。何だか悔しい思いをしたのを憶えている。池永投手の妹は私と同級生であったが、一つ上の姉とよく遊んでいた。後に西鉄に入団して福岡に引っ越した時、姉は一度遊びに行ったらしい。豪邸だったと話していた。プロ野球人気が沸騰したのは、やはり長嶋人気がすさまじかったと記憶している。相撲は「栃若時代」から「柏鵬時代」を経て、「大鵬一強時代」が続く。プロ野球は巨人人気に火がつき「V9」になっていく。プロレス人気は力道山の急死により下火になるかと思われたが、ジャイアント馬場、アントニオ猪木の登場で復活した。プロスポーツは野球、プロレス、相撲の三大スポーツとなるが、運動神経がよく、体格の良い少年たちは野球に夢中になっていった。私は身長が160cmを超えたあたりから全然伸びなくなって、相撲取りになるのは諦めた。当時の身体検査は厳しくハードルが高かった。160cm台では話にならなかった。プロレスは特別な人たちの集まりという感じであった。初期の頃の東富士や木村政彦は成功したと言えない。豊登や天龍だったかな、そこそこだったが一時代を築いたわけではない。サッカーがメキシコ五輪で銅メダルに輝いた。サッカー人気が出てきて、プロサッカーの誕生になった。今や男女ともにワールドカップ優勝を口にするようになった。やはり時代は動いているのだなぁと感じることが多くなった。