久しぶりに「ソフトテニスの思い出」を書こうと思う。なぜならば夢を見たからだ。昨日スポーツ全般について触れたせいなのか、どういう訳か最近は見なくなったソフトテニス部の顧問時代の夢を見た。

 雨が降っているのか、車で南下していた。恐らく熊本か鹿児島まで足を延ばしているのだろう。こんなに遠くの方まで車を走らせているのは、恐らくJ高の顧問時代の事かなと思った。何だか昭和天皇の「大喪の礼」とごっちゃになっているような気がした。その日も雨だったような記憶がある。ただしそれはS高の顧問時代で、まだ県内でしか学校訪問はやっていなかった。県立高校でしかも進学校で、国語の教員である自分がソフトテニス部を強くするにはどうしたら良いか、試行錯誤していた頃である。ある時強豪校の私立高校を見学してもあまり参考にはならないなと思った。環境があまりにも違い過ぎた。そこで思ったのは公立中学校訪問である。公立中学校の顧問の先生は、赴任先の中学校を瞬く間に強豪校にしてしまう。どういう指導をしているのだろうか。中学と高校の違いはあっても、同じ公立の学校である、似たような制限がかかっているだろうから、参考になるのではないかと考えた。当初は学区内の中学校訪問になった。すぐ近くの中学校から少し遠くの強豪校に数えられる中学校まで、学校訪問をした。S高もJ高も学区内のトップ高ではないが、2番手校でそれなりの進学実績を上げている高校である。初めは夏休み明けの中学校で、新チームになっている頃である。3年生は高校進学で迷っている最中である。夏休み中に都合がつけば中学校の区大会や市大会、県大会などを見学に行った。中学校から始めて僅か2年数カ月で見事なプレーをしていた。部員の多くは高校から始める者もいたのだが、中学校と高校の違いはあるが、2年ちょっとでここまでなるかと驚いた覚えがある。初心者の部員にはボールが打ててゲームができるようになればそれでいいかと思っていた。ソフトテニスの楽しさを知ってもらえばそれでいいと思っていた。初心者の中では中学時代のソフトボール部経験者、バスケットボール部経験者、バレーボール部経験者などがソフトテニス部経験者に伍して活躍できる者もいたが、大体は団体戦メンバーにはなれなかった。個人戦で試合出場が出来ればいい方である。ソフトテニス部は人気の部活なので部員は多い時が多かった。一番多い時は男女合わせて100人を超した時もあった。

 中学校訪問しながら3年生の進学先などを顧問の先生に聞いて回った。不思議なことに選手の主力メンバーは偏差値が高い子が多かった。さぞや長時間の練習をしていたであろうと思うが、要領がいいのか高校進学は進学校を希望する生徒が多かった。中学校の大会を見て、私学と張り合おうとするならば、中学時代にそれなりの実績がある選手を獲得しないと勝負にならないと思った。優秀な選手には私学からも勧誘が来ていて、もう内定している子もちらほらであった。中には両方優秀な子もいて、トップ高に行くか、全国優勝もする私学に行くか迷っている子もいた。トップ高に行けばソフトテニスで好成績を挙げるのは諦めなければいけない。私学に行けば国立大学進学を諦めなければいけないというような形である。まだその頃は部活動推薦という制度は県立高校にはなかった。私は1年生部員にあの後輩に声をかけろと勧誘した。1級上の先輩の勧誘は効果があった。市大会上位の選手から県大会上位の選手まで入学してくれた。しかしその頃から部員の入部者が減ってきた。よく言えば少数精鋭だが、やはり初心者の入部が全く減ってしまった。区大会止まりの選手も多く入学していたが、県大会出場を目標にしているソフトテニス部には勉強が大変と言って入部を渋るケースが増えてきた。自由に練習してきた子たちには、あまり魅力的には映らなかったようだ。入学当初の新入生歓迎の期間には大勢の1年生が見学に来ていたが、入部者は7,8名だったかな。最終的に残ったのは6名だった。中学校では区大会、市大会、県大会とあって、その上は九州大会、全国大会となっている。高校は地区大会があって次に県大会である。県大会の次は全国大会(インターハイ)と九州大会があり、別々の予選があった。F市には私学の強豪校が沢山あり、全国優勝を狙うN学園、過去に何度も全国優勝の経験があるH女子高、九州大会制覇の経験が多いQ女子高、常にベスト4には入るT女学園。その他私立の女子高は沢山あり、県立高校にとって県大会出場のハードルはなかなか高い。F県は4地区に分かれていて、それぞれ平等の出場枠を持っていた。団体戦はベスト4、個人戦はベスト16であった。現在では是正されて地区別に参加校数による比例を採用しているようだ。県大会の準決勝以降は団体戦も個人戦も地区大会と同じメンバーになることも多かった。N学園がH女子を破り、初めてインターハイ出場した時は決勝まで進んで、F県勢のレベルの高さを示してくれた。九州大会では県から2校出場になるが、F県勢の決勝での同士討ちはわりと頻繫にその頃はあった。F県2位が九州制覇を果たすことも多かった。コンディションの関係もあったのであろう。全国優勝を目指す上はピークは全国に合わせるからな。(つづく)