J高校の長所は真面目なことである。学業にも部活動にも手を抜かない風潮があった。全国大会も口に出すとそれに向かって努力を重ねて、ひたすら練習をする。それを真剣にサポートするというのが教師陣にも色濃くあった。ソフトテニス部も陸上部も吹奏楽部も男子ソフトボール部も全国を目指していた。女子ソフトテニス部は少し取り残された感じもあったが、男子部はやはりインターハイ出場を目指していた。

 1年目は私も初任以来の副担任で、少し校務分掌の仕事で忙しい時もあったが、コートには頻繁に出ても支障はなかった。S高校の最後の3年間は学年主任もしていたので、コートに出るのが気が引けることもあった。J高校の1年目は副担任でもあったので、割と堂々とした気分でコートに向かうことが出来た。今だと批判も出るかもしれないが、7時半の完全下校の後、職員室に戻り大体9時過ぎまで仕事をしていた。職員室には多くの先生方が居残り、銘々の仕事をこなしていた。手が離せないときは、出前を取ることもしばしばであった。あるいは連れ立って外食に出ることもあった。今思い出しても、少し責任が軽くなったせいもあるかもしれないが、楽しい高校教師生活であった。学校にいる時間は13時間から17時間に及ぶこともあったが、大して苦にはならなかった。泊りがけの先生もいらっしゃった。独身だったので在宅時間が短くても気にはならなかったが、後で思い起こすと同居の母親にもう少し配慮してやれなかったと。大体6時過ぎには出かけた。帰宅するのは10時過ぎるのが当たり前だった。土日も部活動指導の為に家を留守にしていた。後に「この子はどこも連れて行ってくれんとよ」と姉に告げ口されても仕方がない生活だった。しかし教員生活を振り返ってみると、この頃が一番充実していたような気がする。40代を迎えていたが、まだ身体は動いていた。病気の自覚はなかった。しかしこの頃糖尿病が進んでいたようだ。

 1年目の新人戦は、結果を憶えていないことは、県決めにも進めなかったのかな。選手は2年生は3名、1年生は8名だった。練習試合も少しづつ増えてきた。中学校との練習試合も増やした。J高校は人気のある高校だったので、中学校の有望選手が入部を希望してほしいという下心もあっての事だったが、単純にソフトテニスを続けてほしいという気持ちも強かった。新設高校などはソフトテニス部ではなく、硬式テニス部を作るところが多くなっていた。地区予選も40校近くの出場校だったのが、30校に近くなっていった。「ソフトテニスをオリンピックに」という合言葉はよかったが、実情は「テニス」と言えば、「ソフトテニス」といえるのは、中学校の「テニス部」だけになりつつあった。「北京五輪にソフトテニスを」という夢は儚く散ってしまったなあ。(つづく)