その後結果としては4年浪人した後、大学に入り卒業したのち高校教員になった。部活動顧問としては1年間柔道部の顧問をしたのち、念願のソフトテニス部顧問になった。県立高校だったので、4校経験することになったが、3校はソフトテニス部の顧問が出来た。最後はソフトテニス部がなく、硬式庭球部だけだった。しかしソフトテニス部の顧問として26年間も過ごすとは、当初は思ってもみなかった。

 最初赴任した高校は新設4年目の高校だった。テニスコートは4面あり恵まれた環境であった。2年目からソフトテニス部の顧問になることができたが、顧問は5名いて最年長の先輩顧問から、女子を見てくれと言われた。女子の指導がこんなにも困難だとは当初は思いもよらなかった。

 初めての学級担任も重なり、あまりコートに行く機会も多くはなかった。副顧問でもあり、毎日出なくてもいいかと思ってしまった。それが間違いだった。信頼関係が築けていれば問題なかったと思うが、毎日出てこない顧問の言うことを素直に聞いてくれる女子部員はあまりいない。しかも新米顧問である。ある時1年生の素振りの指導で、意見が衝突した。ロブ主体かシュート主体の違いで、予選を見てロブ主体でないとH女子高には勝てないと思った。H女子高は全国でも何度も優勝するようなチームで、ガンガン打つチームだった。真似をするチームも多かった。しかし県立高校のチームが私立高校のチームに勝つにはロブを上げて、立体的な試合運びでないと勝てないと思った。かなり打てる後衛はいたが、前衛はそれほどでもなかった。チームの目標を聞くと県大会出場ではなく、打倒H女子高であった。本気かと聞くと本気だという。まだ若くて経験の浅い私は、女子部員のこの言葉を真に受けた。フォーム改造から着手しようとしたが失敗した。先輩顧問から学級担任と校務分掌の仕事に力をいれなさいと言われてしまった。まあ早い話が女子の顧問を首になったのだ。(つづく)