今回は、「ポリアモリーを名乗ること、名乗らないこと」について考えてみたいと思います。
 

私の知人に、「愛」とか「恋」と呼ばれている感情に関して、「友情と恋愛感情の区別がいまひとつ付いていない」「好意のある相手であればほぼ誰とでも、セックスがしたいと感じている」「嫉妬心とか独占欲と呼ばれる感情が希薄」と言う人がいます。

こう聞いて「この人ポリアモリーじゃないの?」「リレーションシップアナーキーでは?」と思う人もいるかもしれませんが、彼は「一時期はポリアモリーを名乗ったこともありますが、同じセクシュアリティを名乗る人と必ずしも思想や感覚が一致しないことや、似た仲間で集まる必要性を感じないことから、いつからか名乗ることをやめました」と言います。

私の周りには、ポリアモリーを名乗る人もいれば名乗らない人もいます。

「複数の人を好きになるけれども1人としか付き合わない人」や、「複数の人と合意のもとで付き合うけれどもポリアモリーを名乗らない人」など様々です。

私自身は、ポリアモリーを名乗りつつ、ポリアモリーとしての自分の考えや生き方を発信して10年以上になります。

なぜ、ポリアモリーを名乗るのか?

そもそも、何かの属性や肩書きを“名乗る”ことにはどのような意味があるのでしょうか。
 

私がポリアモリーであることをオープンにしているのは、何よりもまずポリアモリーに興味のある人たちと繋がりたいから、そしてポリアモリーとしての自分の悩みや不安を分かち合ったり相談したりしたいからです。

ポリアモリーについて悩んでいる人たちを(一方的に)助けたい、と言えるほど自信があるわけではないけれど、皆でお互いに助けあうことならできるかもしれない。

そのために自分自身をオープンにして、人と繋がっていたいと思っています。

人と助けあうその先には、パートナーの数に関わらず誰もが不便なく暮らせる社会を作りたい。

日常的な困難ならお互いの協力で解決できるかもしれないけれど、それでも「法律」や「制度」に阻まれて望む生活が送れない可能性は残ります。

具体的には、カップル内の誰かが突然入院したり亡くなったりした時のことが不安なのです。

ポリアモリーは3人以上で結ぶパートナーシップである…という概念が社会に認知されないままなら、私とパートナー達は万が一の時にカップルだと認められなくて困るかもしれない。

たとえばセクシュアルマイノリティという概念が認知されなければ、同性カップルがカップルだと認められず、入院した時に見舞いができなかったり、片方が死亡した時に葬儀に参列できなかったりする、という例と同じです。

私はパートナー達の人生にコミットしたいし、もしも私が死んだ時にパートナー達に何も遺らないような制度の社会では困ると思っています。

今は皆が元気で健康であっても、10年20年と一緒に過ごして歳をとっていった先のことを考えると、私達の関係が社会にどのように認知されているかが問題になるでしょう。

私は自分のポリアモリーとしての生き方を発信することで、パートナーシップにまつわる文化や社会の仕組みを、誰にとっても生きやすい方向に変えていきたい。

“社会運動”というと大袈裟かもしれないけれども、自分のため・大切な人たちのためだけでなく、他の人たちにも役立つ発信ができればと思っています。
 

ただし、それはあくまでも私の事情だし、私の都合。
ポリアモリーについて発信していると、時に「ポリアモリーであることには相応の覚悟や責任が必要。発言や行動には慎重を期すべき」などと、ポリアモリーを神聖化するような”べき論”を振りかざす人を見かけることがあります。

ポリアモリーだけでなくいろいろなマイノリティのセクシュアリティやジェンダーを名乗る人は大勢いるし、自分がマイノリティを名乗ることに覚悟や責任をもつのは各人の自由だと思いますが、覚悟や責任をもつことを他人に押し付けるのは間違っています。

何かのマイノリティを名乗ることに、基本的には何の覚悟も責任も必要ありません。

名乗る理由も目的も人それぞれでいいし、いつ名乗るのをやめたっていいのです。

その日の気分で服を着替えるように、誰だってセクシュアリティやジェンダーを着たり脱いだりしていい。

何を名乗るにせよ、その名前に縛られなくていいと思っています。

たまたま何かのマイノリティだからって、誰にもその”代表”を務める義務なんかありません。

私だって、ポリアモリーの“代表”でも”教祖”でもないのです。

ポリアモリーの中にも、立派な人もいればクソみたいな人もいるし、いていいのです。

モノガミーにだって立派な人もいるしクソみたいな人もいるのと同じこと。

ポリアモリーだからといって、全員が聖人君子でなければならないとか、アクティビストのように活動しなければならないなんてバカげています。

「ポリアモリーの1人が悪い行動をすると、他のポリアモリーまで悪く思われる。だから行動に気をつけなければならない」という意見はよく聞かれるものですが、そもそも、そうやって主語を大きくして「ポリアモリー全員をひと括りに捉える」人の方がおかしいし、そういう多様性を殺す”ねばならなさ”の呪いにこそ、抵抗していきたいと思っています。

私自身にとって、ポリアモリーであることは確かに大切なアイデンティティではあるけれど、私はポリアモリーである以前に善さも悪さももつ1人の人間だからです。

マイノリティを名乗ることも、その生き方を発信することも、発信したい人が安心安全に発信できて、発信したくない人は発信しなくても不利益を被らない。

そんな社会が作れればと思っています。