以前「ザ・ノンフィクション」というテレビ番組で、父親1人・母親2人・子供6人のポリファミリーを取り上げた「家族のカタチ ~ふたりのお母さんがいる家~」という特集が放送されました。

ネット上では、この家族に対して「父親が母親や子供たちを洗脳しているだけだ!」「こんなのは宗教だ!スピリチュアルだ!」という批判が多く見られました。

そこで今回は、ポリアモリーとスピリチュアルの関係について、考えてみたいと思います。
 

まず、私はスピリチュアルや宗教それ自体が悪いものだとは思いません。

ポリアモリーはスピリチュアルじゃない、と言いたいわけでもありません。

ポリアモリーがキリスト教の説く性愛倫理…モノガミーに対するカウンターカルチャー的な側面をもつことを考えると、ポリアモリーに宗教的要素が含まれるのは自然なことだといえます。

ポリアモリーに関わりのあるスピリチュアルな営みとしては、タントラがよく知られています。

深海菊絵『ポリアモリー 複数の愛を生きる』によれば、タントラとは、人が自分でエネルギーをつくり出す方法を教えるものであり、「己に目覚めるための現実的な方法」です。

もちろんポリアモリー当事者全員がタントラをたしなむわけではありませんが、多くのポリアモリー関連書籍がタントラに言及しています。

たとえば「前向きにポリアモリーを実践するための10のステップ」を作成したBarbara Carrellasは、『アーバン・タントラ』という本の著者でもあります。

ポリアモリーにおけるタントラ(およびタントラを身につけるためのヨガ)の意義は、『ポリアモリー 複数の愛を生きる』の中で次のように説明されています。
 

タントラの特徴の一つは、「頭で理解するのではなく、実行せよ」というように実践に重きを置く点である。タントラでは理性に基づいた倫理的な思考には限界があり、自分の身体をつかって得られる理解の仕方があると考える。そこで実践するのがヨガである。すなわち、タントラでは瞑想によって本源的な自己の探求を目指す。ポリアモリストのなかに、嫉妬が生じたときにヨガを実践する人びとがいるのはこのためである。自分の身体を使って、「今ここ」で起こっていることを感じ、理解し、受け入れるための実践。タントラではそういったヨガ実践こそが、客観的にものごとを見極めていく方法につながると考える。いくつかのマニュアル本では、カップルや複数でヨガを行うことが奨励されている。実際、ポリアモリーのタントラ・ワークショップには、パートナー同伴で参加している人びとが多い。

タントラにおいて「自己への執着」は「他者への執着」でもある。なぜなら、「他者への執着」──あの人を所有したい、自分だけの存在であってほしいという欲望──は自分を中心として世界を見るときに生じるからだ。

 

こうして見ると、理屈だけではなく実践を大切にすること、そのなかで「今ここ」の自分の感覚を受け止め、他者に対する執着や所有欲を手放すことなど、タントラが目指すものはポリアモリーにおいても重要なことだと思われます。

このように、ポリアモリーにおいては、スピリチュアルな要素も大切にされていることが分かります。

ただし、ポリアモリーそれ自体がスピリチュアルな思想であるというよりは、「より良いポリアモリー関係を目指すうえでは、タントラのようなスピリチュアルな手段も有効」という位置づけのようです。
 

そして、ポリアモリーは洗脳だ!宗教だ!と批判する人たちは、そもそも自分たちは”洗脳”されていないと言えるのか、考えてみてほしいものです。

ポリアモリーが洗脳だというなら、モノガミーが洗脳ではないとどうして言えるのでしょうか。

私達はさまざまなメディアによって、日々「家族とはこうあるべき」「恋愛とはこうあるべき」を刷り込まれながら過ごしています。

恋愛は1対1でするべき、という「モノガミー」もそうだし、運命の人と愛し合い結婚して子供を産むべき、という「ロマンチック ラブ イデオロギー」もそうです。

結婚の本質について哲学の視点から考察した書籍『最小の結婚』に出てくる概念「amatonormativity」もそのひとつ。

性愛規範、恋愛伴侶規範などと訳されていますが、つまりは「一人の特別な人に恋愛をして、その人と結婚して、ずっとその人だけを大切にすることが、人間の最高の幸せ」という考え方のことを指します(amatonormativityについてより詳しくは、こちらも参照してください)。

1対1で恋愛することも、愛する人と結婚することも、たまたま今の時代そうする人が多いというだけの、ある意味”流行”でしかありません。

なのにそれを家族や恋愛における普遍の正義のように思い込み、振りかざして他人を叩く人こそ、モノガミーという宗教に洗脳された信者のように見えてしまいます。

ポリアモリーがスピリチュアルな側面をもつとしても、それが悪いというわけではないし、スピリチュアルそのものが悪いというわけでもない。

問題なのは、ポリアモリーか否か、スピリチュアルか否かに関係なく、他人に「こうあるべき」と価値観を押し付け、自分と異なる生き方の人を非難することではないでしょうか。

人にこうした呪いをかけることこそ、不健全な”洗脳”と呼べるのではないかと思います。