今回は、コロナ禍においてオフラインのイベントを開催することについて、当時の私が考えていたことをまとめたいと思います。

 

新型コロナウイルスに関するニュースの中で、「自粛警察」という言葉がよく聞かれていました。

自粛警察とは、新型コロナウイルスに対する緊急事態宣言のなかで「自粛していない人を非難する風潮」を指す言葉です。

私が幹事会メンバーの1人として活動しているポリーラウンジ(ポリアモリーに興味がある人の交流会)にも、対面での開催を自粛するようクレームがきました。

そのような人たちの心理について、考えていきたいと思います。
 

そもそも私がポリーラウンジをオフラインでおこなう最大の理由は、それが参加者の要望だからです。

ポリーラウンジには、さまざまな人が訪れます。

国内外のポリアモリー当事者もいれば、「ポリアモリーしたいけど、パートナーの合意が得られない」と悩む人、逆に「パートナーにポリアモリーしたいと言われたけど、どう受け入れていいか分からない」と悩む人もいます。

今は浮気しているけれどパートナーに合意を得てこの関係をポリアモリーにしていきたい、と願う人もいるし、今は浮気していてポリアモリーをするつもりはないけれどそれについて安心安全に語りたい、という人もいるのです。

ポリーラウンジはポリアモリー当事者限定のイベントでもなければポリアモリーを推奨するイベントでもないので、ポリアモリーという生き方でない人、浮気を営んでいる人でも自由に参加できます。

そしてそういう人達は、家族と一緒に暮らしている自宅でオンラインイベントに参加して自由にポリアモリーを語る、というわけにはいかないことがほとんどです(このような「家族にカミングアウトしていないからオンラインイベントに参加できない」という問題は、多くのクローゼットなLGBT当事者も抱えているものです)。

だからこそ、オンラインにはない安全性をオフラインのポリーラウンジに求めるのです。

加えて私は、ポリフレンドリーな友人たちの経営する店やレンタルスペースでイベントを開催するよう心がけています。

せっかくお金と時間を使うなら友人のところで…という思いがあります。

もちろんこれらの考え方は私独自のものであって、他のポリアモリーイベントの主催者にこの考え方を押し付けるつもりはありません。

参加者にも各自の事情があるので、オンラインの方が都合がいい人はオンラインのイベントに参加すればいいと思います。

私自身も普段のイベント開催はオフライン中心ではありますが、オンラインイベントも開催しています。

ポリアモリーだからといって、全員が同じ意見、同じイベントのやり方である必要はない。

ポリアモリーの中にも、多様性は必要です。

重要なのは、選択肢を増やしておくことです。

別にオンラインとオフラインとで参加者を奪い合ったり、イベントとしてどちらが”正しい”かを競う必要はなく、参加者がどちらも選べるようにしておきたいのです。

オンラインでイベントを主催している人に「オフラインの方がいいイベントだ」と私がマウンティングする理由はないし、逆にこちらが「オンラインでやれ」と言われる筋合いもありません。

他人に「こうあるべき」を押し付ける必要性はないのです。

もちろん、ポリーラウンジをオフラインで開催するにあたっては、参加人数を減らし、消毒や換気に気を遣い、マスクをしてソーシャルディスタンスを確保し、三密を避け、つまりできる限りの新型コロナウイルス対策を取っています。

それでも、”オフラインでイベントを開催する”という一点だけで結局クレームを受けてしまっていました。

どうも、自粛警察と呼ばれる人たちは、物事を単純化して「オフラインのイベント(あるいは営業している店)=悪」「オンラインのイベント(あるいは休業している店)=善」の二極で捉えているように思えました。

オフラインでイベントをやるにしても、店を営業するにしても、消毒や換気をしたり、時間短縮営業をしたり、参加者の検温をするなど、さまざまな対策を講じることはできます。

それなのに、十把一絡げにして「オフラインでイベントをやるな!店を閉めろ!」と言われてしまうのです。

このように、個別の状況を鑑みることなく、偏った視点でひと括りにして他人に自粛を強要してしまう人がいるのは何故なのでしょうか。
 

脳科学者の中野信子は、対談記事「なぜ危機的状況になると他人を批判するだけの"正義中毒"が増えるのか」の中で、「『自分が社会正義を執行したい』という欲求はとても強力なものなんです。自分が正しい側にいて、規範から逸脱した人を攻撃すると『自分はいいことをした』という報酬が脳内で得られるんです」と述べています。
 

私たちは普段から、「個人」と「社会」という2つの原理の間のどこかで生きているわけですが、比較的安全な時だと「個人」の原理を優先することができます。しかし、危機的な状況の場合は、みんなで立ち向かわないと乗り越えられないので、「個人」よりも「集団」の原理が優先されるようになります。それで、脳が「危機だ」と判断すると、「みんなのために何かをしない人は、悪だ!」となってしまう。
戦争のときなども、そうなりやすいんです。「みんなのために戦わない人は非国民だ」というような気持ちになる人が増えていきます。


記事からも分かるように、コロナ禍においては、「誰もがこうするべき」という同調圧力が普段よりも一層強くなっていたように思います。

 

各自の事情も、多様な考え方も、「そんなこと言ってる場合じゃない」と抑えつけられてしまう。

少なくとも、新型コロナウイルス対策に対しては、唯一の正解も完全ノーリスクの行動もないのです。

どんなリスクなら避けられて、どんなリスクなら背負えるのかは、それぞれの事情によって各自が判断する必要があります。

大事なのは、他人に対して正義を振りかざして追い詰めないこと。

同時に、「自分は正しいことをしなければならない」という”ねばならなさ”を緩めること。

「誰からも批判されないように、一片の曇りもなく正しく振る舞おう」とする心掛けも立派ではありますが、「自分も他人も100%完璧に正しく振る舞うことはできない」と受容する気持ちも大切なのではないかと思っています。

正しくなければならないという自分を縛る気持ちが強くなるあまり、翻って「正しくない他人」を叩く気持ちになってしまうこともあるからです。

こういう時だからこそ他人に”べき論”を押し付けず、それぞれの状況に合わせて何ができるのかを考えていきたいと思います。