今回は、ポリアモリーに関するとある記事を読んだ感想を書いてみようと思います。

 

筆者は、自分自身について「なんか皆のこと、めちゃくちゃ好きなわけでもないけど、そこそこに好きだわ〜みたいな感覚」を持つこともあると言い、それは「大好きな彼や彼女がいたって、新鮮な出会いがあればそちらに気持ちが流れてしまうなんてよくあること」だと一般化します。

そのうえで、しかし「それを何故相手に同意させようと思うのか」とその感覚に対する行動のあり方を否定しています。
 

「俺は(私は)浮気性なんだよね。恋人は何人も欲しい」って言う奴はこの世に多分一定数いる。で、そいつを好きな故に仕方なくその主張を受け入れる奴、やっぱり受け入れられない奴がいるでいいんじゃないのかな。 問題は”そいつを好きな故に仕方なくその主張を受け入れる奴”の「仕方なく」なんですよ。その仕方なくがなかったら、ダメだと思うんです。 『私はポリアモリーなんで、全員同意の元3人と付き合ってます』には、仕方なくは含まれない。そんな情緒のない勝手な話ありますか?


また、筆者自身は、複数の人を好きになることもあると言う一方で、自分のことを「完全なモノガミー」「浮気性」「誰のことも好きではない」と表現しています。

もちろん、そういう人もいていいのですが、「私は誰のことも好きではない浮気性なんだから、あなたも同じはず」と、相手の主張を否定してまで自分とひと括りにする必要はないと思います。

自分自身が自己否定する時に、わざわざ他人を巻き込まなくていい。

ただ、「自分とは違うけれど、そういう人もいる」でよいのではないでしょうか。

そして結論として、筆者は以下のようにポリアモリーに疑問を呈します。

 

 

私は複数人が対等に好きで、相手もそれに同意し受け入れてお互いを理解しています!って言っちゃう、それにポリアモリーという名前をつけて、私はポリアモリーなんです!世の中にはいろんな愛の形があるんです!って主張するのは違うんじゃないのかってことです。 (略)よくあるパターンに名前をつけ、あえてその自由を正当化することには疑問を感じずにはいられない。


筆者の主張をまとめると、

 

  • 皆のこと好きだわ〜みたいな感覚なんてよくあること
  • でも、他の人を好きになっても、ぐっと堪えたり、罪悪感を持ったり、浮気を隠したり、バレて代償を払うのが本来の恋愛の形
  • わざわざ「ポリアモリー」だと自己主張するのはおかしい。ポリアモリーは面倒なことからの逃げであり自分勝手

ということになります。

 

 

 

私としては、「別に、楽しく恋愛してもいいんじゃない?」と思います。

 

 

「仕方なく」がなかったらダメだとか、ポリアモリーは「面倒なことから逃げること」だとか、ドロドロしてない恋愛なんてありえない、とあえて苦行にしなくてよいのではないでしょうか。

人は誰しも、楽しく心地よく恋愛していいんです。

社畜根性じゃあるまいし、「苦しみこそ価値がある」「悲恋こそ尊い」みたいなマインドを、自分や他人に押し付ける必要はありません。

私は、恋愛(のみならずあらゆる人間関係)に「仕方なく」があったら、ダメだと思うんです。

”そいつを好きな故に仕方なくその主張を受け入れる奴”と”受け入れさせる奴”という関係性のあり方って、限りなく暴力やDVに近い。
そういう関係は対等ではないし、そういうコミュニケーションは合意ではありません。

先ほど引用した記事のタイトルは「ポリアモリーをあえて全否定する話」。

なぜ、筆者は”ポリアモリーをあえて全否定”するのでしょうか。
「ポリアモリーだなんて、世の中に主張するな」という批判はよくあるのですが、それを言いつのる人が抱えている気持ちって何だろう?と思います。

自分と合わない生き方なら、利害が対立しない限りは「ふーん、そういう人もいるんだな」と放っておいていいのに、なぜあえて否定せずにはいられないのか。
不倫のバッシングなどもそうですよね。

とどのつまり、自分もいろんな人を好きになるけれど、本当は自分の恋愛模様を自分で受容できていない。
自分の恋愛に罪悪感があるから、(一見すると)自分と同じような人がポリアモリーを名乗り「楽しく恋愛しています」と明るく語っている様子が、刺さってしまう。
だからあえて否定せずにいられない……ということなのかもしれません。

裏を返せば、「私は罪悪感を持って生きてるんだから、あなたもそうするべき。でないと私だけが罪悪感に駆られているなんて苦しい」ということ。
この考え方って、苦しさの連鎖しか生みません。
「わざわざ存在を主張するな」「コソコソ生きてろ」というのは、LGBTにもよくある批判です。
「罪悪感や自己嫌悪に駆られて苦しんでいる当事者」というあり方しか許さないのは、いわゆる”らしさの押し付け”ではないでしょうか。

もちろん、将来的にはポリアモリーという名付けの要らない世の中になればいいと思っています。
ポリアモリーという言葉を使って発信しているのは、その言葉が必要ない世界を作るためのプロセスにすぎません。

「誰であっても、誰かを(何かを)愛する自由があり、性別や年齢、立場関係なく相手を敬い思いやる愛情があり、それを時に世界へ堂々と言い放つ自由がある」世界を作るために、今はまだ「ポリアモリー」という言葉が必要なのだと思っています。

いつかは、ポリアモリーという言葉などなくても、誰もが「複数の人を同時に好きになるなんて、よくあること」と思える世界にしたい。
LGBTという言葉などなくても、誰もが「同性を好きになる人もいるよね」「恋愛感情や性欲がない人もいるよね」と思える世界にしたい。

そのためには、まずは「そういう人がいる」ということが知られなければならないのです。

悲しいかな私たちは、自分が「知らない存在」は「いない存在」だと思ってしまう。
世界には同性を好きになる人や、複数の人を同時に好きになる人がいる、ということを知らなければ、そういう人は”いない”前提で暮らしてしまう。
それは、たとえ悪意がなくても差別や排除につながりかねません。

だから、「まずは存在を知らせる」→「そういう存在がいることが当たり前だと認識される」→「存在に特別な”名付け”が要らなくなる」というプロセスを踏む必要があると思っています。

筆者が「複数の人を同時に好きになるなんて、よくあること」と思うなら、それでいい。
でも、それがよくあることだと思わない人も世の中には多くいて、そのような人が悪意なき差別や排除を生んでいる、というところまで想像が広がればもっといいと思います。