以前、私はパートナー達と「まんがいちTV」という番組に出演しました。

放映中、そして放映後は、ポリアモリーについて様々な発言がSNS上に飛び交いました。

特にTwitterでは、「ポリアモリー」という単語がトレンドのランキングに上がったほどです。
(ちなみに、放映直後は否定的な意見が多かったものの、次の日くらいになると肯定的《もしくは中立的》な意見が半分ほどの割合になっていたのが印象的でした。)

そこで今回は、SNSにおける反応をもとに、ポリアモリーに対する批判を次のように分類してみました。

「倫理にもとる」

「ポリアモリーは非倫理的、反道徳的だ。貞操観念がない」

「ポリアモリーがはびこると家族制度が崩壊する。文化や風紀が乱れて日本がダメになる」

「浮気や不倫の正当化、言い訳にすぎない」…

「倫理」や「文化」や「日本」など、このタイプの批判はとにかく大風呂敷、とにかく抽象的で言ってることがふわっふわ。

主語が壮大で、「自分の方が分かってる」と言わんばかりの上から目線です。

「ポリアモリーは“本当の愛”を知らない」という批判も、このタイプに含まれると思います。

まるで何かの代表や先生のようです。

ポリアモリーがダメというなら、モノガミーが具体的にどう良いのかという根拠を示してほしいものです。

批判するだけで代替案を出さないのは、有意義な議論とはいえません。

このような発言の根底には、「現状が変化するのが嫌」という保守的な態度があると思います。

未知の物事や概念に対して恐怖や不安を覚えるのは人間として自然な感覚ですが、その恐怖を深く掘り下げることもせず「間違っている!」という脊髄反射的な怒りにすり替えてしまっては、生産的な意見にはならないでしょう。

「セックス依存症」

他にも「単なるセフレ」「ビッチ」「ヤリチン」などなど…セックス関連の批判も多く見られます。

セックスじゃなくて恋愛の話をしてるのに、「恋愛=セックス」だと思い込んで論点がズレているのがこのタイプ。

他人を批判しているつもりでいながら、実は自分の視野の偏りを露呈しています。

恋愛においてセックス至上主義者だと自己紹介してしまっているようなものです。

というか、ポリアモリーであれモノガミーであれ、「性に奔放」「セックスしまくりたいだけ」だったとしても、それ自体が悪いわけではありません。

合意のある関係であり、自分も他人も傷付かない営みである以上は、第三者にとやかく言われる筋合いはないのです。

「セックスは汚いもの、恥ずかしいもの」「セックスにポジティブなのは良くないこと」というセックスに対するタブー視が、このような批判の背後にはあると思われます。

「子供がかわいそう」

子供がかわいそうかどうか決めるのはその子供自身であって、その子の親ではないし、ましてや第三者が勝手に決めつけるものではありません。

さらに言えば、「親がポリアモリーだと子供がいじめられる」などの批判はよく見られますが、それってどう考えてもいじめる側に問題があります。

「ミニスカートを履いていると痴漢に遭う」などの言説と同じで、悪いのはミニスカートを履いている側ではなく痴漢なのです。

ミニスカートを履かないことは女性の権利だし、子供がいじめられないような子育てをすることは親の権利ですが、そうしないからといって他人から責められるいわれはありません。

むしろ、ポリアモリーが子育てに良くないというなら、モノガミーが子育てにおいてより良い方法なのかどうか、いま一度考えてみてほしいと思います。

こういう発言の背景には、「子育てはこうあるべき」という規範意識があります。

育児規範に縛られるあまり、そういう人が育児を独りで抱え込んでしんどくならないか心配になります。

「性病もってそう」

逆に「モノガミーなら性病にはならない」と思っているのでしょうか。

思っているから、こういう批判が出てくるのだと思います。

きちんと予防をしなければ、誰だって性病のリスクは高まります。性病にはセックス以外にもさまざまな感染経路があることを考えると、一概に“ポリアモリーだから性病リスクが高まる”とはいえないでしょう(キスや便器を介して感染する性病もあります)。

むしろ、ポリアモリーにはセックスリテラシーの高い人、セックスポジティブな人が多く、概して性病予防や避妊には積極的という印象です。

性病のリスクはポリアモリーかモノガミーかというライフスタイルと直接には関係ないので、これは的外れな批判だといえるでしょう。

「ブスのくせに」

「気持ち悪い」「生理的に無理」などもありますが、ここまでくるともはや、批判ではなくただの非難。

個人の感想としてはどう感じても構わないとは思いますが、それを誰にでも見えるSNSという場で発言するのは、単なるエチケット違反です。

そのような非難をする人って、自分自身も「ブスのくせに」と言われることを想定しているのだろうか…?と不思議に思うのですが、もしかしたら自身がまさにそういう罵りを受けてきたからこそ(あるいはそれを内面化して「私なんてどうせブスだし…」と自分を卑下しているからこそ)、他人にもそういうバッシングをぶつけてしまうのかもしれません。

そもそも「ブスのくせに」という非難は、「美しくなければ、恋愛してはならない」という規範意識から生まれているものだと思います。

そういう規範意識って、恋愛市場にお金を注ぎ込ませようとする資本主義から刷り込まれているのではないでしょうか。

そういう意味では、「モテ/非モテ」や「リア充/非リア充」などと恋愛に格差や資格を設けて、恋愛の勝ち組にならなければダメ!と煽ってくる恋愛“市場”主義って、かなりいろんな人を苦しめているんじゃないかと思っています。


表現はさまざまあれど、ポリアモリー批判のほとんどはこの分類で片付いてしまいます(他に目新しい批判があったら、ぜひ教えてほしいです)。

共通しているのは、「ポリアモリーそれ自体に対する批判として成立していない(モノガミーに対しても同じ批判が可能)」もしくは「第三者が規範意識を押し付けているだけ」という点。

(ちなみに、今回は論点を分かりやすくするために「ポリアモリー/モノガミー」という軸で語りましたが、必ずしもこれらが対立するライフスタイルだというわけではありません。)

ポリアモリー批判の背景にはどのような価値観や思い込みがあるのか?と考えてみると、結局はどれも、私たちのなかに根深く巣食っている“「ねばならなさ」の呪い”なのだな…と思えます。