今回は多様なポリアモリーのかたちと絡めて、「アセクシュアル」についてお伝えしていきたいと思います。
 

アセクシュアルとは、他人に対する性愛を感じない、またはセックスへの関心や欲求をもたない人のことです。

ポリアモリーというと、とかく「複数の人と性愛関係を結んでいる」、つまり「複数の人とセックスする関係にある」ということが取り沙汰されがちです。

それだけ世間の人々のもつ、セックスは特別な1人とだけおこなう“神聖な”行為であるという意識は強いのでしょう。

ポリアモリーが「ビッチ」「ヤリチン」などと嫌悪感を示されることがあるのも、これが理由なのだと思います。

一方で、ポリアモリーについて発信したり、ポリアモリーについて多くの人と話す中で、私は「アセクシュアルなポリアモリー」もいる、ということを知りました。

私が主催している、ポリアモリーに興味をもつ人の交流会「ポリーラウンジ」にも、時折アセクシュアルなポリアモリーの人たちが参加してくれています。

アセクシュアルで、かつポリアモリーな人たちのパートナーシップは、たとえば「合意のもとで複数の人とセックスのないパートナーシップを結ぶ」ということになります。

「え?それって、複数の友人がいるのとどう違うの?」と思った方もいるかもしれません。

正直、私にはその違いを明確に示すことはできません。

ポリアモリーとしての私には恋人と友人の区別ってよく分からないし、そもそも区別が必要だとも思えないのです。

アセクシュアル当事者にもポリアモリー当事者にも、恋人と友人とを厳密に分けない人はけっこういると認識しています。
 

アセクシュアルとポリアモリーには、他にも共通点があります。

たとえば「おかしい、かわいそう」「まだ本当に人を好きになったことがないだけ」「いい人に出会えば“治る”よ」と言われたり……

「セックスのないパートナーシップ」というなら、私だってパートナー達とは長い間セックスしていません。

でも、パートナー達との間には確かに絆が結ばれていると感じています。 

私はアセクシュアルだと自認しているわけではないのですが、言いたいのは「愛し合っていてもセックスのない関係だって、あるよね」ということ。

こういう関係は決して少なくないのではないかと思います。

なんというか日本におけるセックスって、「パートナーでない人としてはならないもの」である一方で、「パートナーとは定期的にしていなければならないもの」みたいな意識があるのではないでしょうか。

いろんな人としまくるのは「ビッチ」「ヤリチン」と言われて問題視されるし、全くしないのも「セックスレス」とかって問題扱いされてしまう。

なんだか、世間的にOKとされるセックスのライフスタイルって、かなりストライクゾーンが狭いような気がします。
 

考えてみれば、そもそもアセクシュアルというセクシャリティも、ポリアモリーというライフスタイルも、恋愛規範というものがあるからこそ存在しているものではないでしょうか。

たとえば、「恋人と友人とを区別する」という考え方がなかったら、アセクシュアルもポリアモリーも生まれなかった概念ではないかと思うのです。

「恋人とは、性愛を感じる唯一の相手」というような規範意識があるから、アセクシュアルは「性愛」のところで引っかかるし、ポリアモリーは「唯一」のところで引っかかってしまう。

「恋人って、こういうもの」みたいな価値観に呪われてしまって、それに沿った恋愛やセックスができないことで苦しむ。

でも、アセクシュアルやポリアモリーでない人たちにとっても、「恋愛やセックスをしてリア充にならないと負け組」という意識に振り回されるのってしんどいものではないでしょうか。

私は、昨今の草食系男子や「おひとりさま」の流行など、誰かと恋愛やセックスをすることが必ずしも当たり前ではないという文化が広まってゆくにつれて、そのうちにアセクシュアルは珍しいものでもなくなり、セックスは「そういうのを楽しむ人もいる」という、ある種の趣味や嗜好品のような位置づけになってゆくのではないかという気がしています。

恋愛やセックスって、必ずしも誰もがしなければいけないものではないし、当事者同士の合意があれば、誰とどのようにしようがしまいが第三者には無関係なはず。

世間からどう見えるかじゃなくて、自分と、目の前にいる相手の価値観や気持ちをいちばん大切にしたいものです。

「『ねばならなさ』の呪い」にかかることなく、自分たちがどんな恋愛やセックスをしたいか/したくないかを、誰もが自分で考えてゆければと思います。