今回は「ポリアモリーは主義か性質か」という問いについて、改めて考えてみましょう。
 

ポリアモリーは主義(ライフスタイル)か?性質(セクシャリティ)か?という議論をよく見聞きします。

どうも、ポリアモリーを知ったばかりの人が真っ先に感じる疑問の一つのようです。

私としては、主義と性質どちらだとしても、結局は「ポリアモリーとして、いかに生きるか、いかに営むか」というところに着地する以上、その問いを突き詰めることにはあまり意味を感じません。

性質だとしてもそれを免罪符にして良いわけではないし、主義だとしても全てを自己責任にされるのは違うと思います。

ポリアモリーはセクシャリティか?という問いは、ポリアモリー当事者はセクシャルマイノリティか?という問いとつながっています。

私個人は、ポリアモリー当事者はセクシャルマイノリティというよりソーシャルマイノリティでは……と思いますが、そもそも“マイノリティ”という人種が存在するのではなく、マイノリティ性は誰の中にもあるもの。

生まれつきのものも、選びとるものも、後天的に備わる性質みたいなものもあるでしょう。

たとえば不慮の事故や病気で後遺症が残るとか、そういうことだってある種のマイノリティ性です。

だから、(先天的な)性質か(後天的な)主義かを論じる必要性はあまりないと思っています。

それに、「性質」と「主義」ってそんなにくっきりと区別できるものでしょうか?

私は、ポリアモリーは“誰にでも”実践できるライフスタイルだと主張するつもりはありません。

そもそも自分がどういう性質をもった人間なのかが、ポリアモリーを実践できるかどうかに大きく関わってくると思うからです。

その一方で、複数の人たちを同時に真剣に愛する性質が自分の中にあったとしても、それが必ずしもポリアモリーの実践につながるわけではないと思っています。
 

誰しも、自分のことを何もかもコントロールできるわけじゃないし、逆に全くコントロールできないわけでもありません。

自分で自分をコントロールできる部分を「主義」、コントロールできない部分を「性質」と呼び分けてみたところで、本質的な区別にはならないでしょう。

コントロールできなかった部分をコントロールできるようになる(たとえば怒りの感情とうまく付き合えるようになって「キレなく」なったり)こともあるし、コントロールできていた部分がコントロールできなくなる(たとえば年を取って身体が思うように動かなくなったり)こともあると思います。

だからって、別に性質だった部分が主義になるとか、主義が性質になるとかいうことではありませんよね。

性質とか主義とかいうより、今の私はたまたまこういう風に人を好きになり、こういう風にコミュニケーションをとって、こういう風にお付き合いをしています、という状態だとしかいえないと思うのです。

そして、今こうだからといって、これからもずっとこうだという保証はない。

私は今のところはポリアモリーという言葉で自分を説明しているけれど、一生ポリアモリーかどうかなんて分かりません。

来年の今ごろは、愛するのも付き合うのもたった一人というモノガミーな私になっているかもしれない。

それどころか、恋愛感情や性欲がなくなっている可能性だってゼロではありません。

でも、そういうこともあって良いと思います。

たとえ自分の性質がどう変わっても・変わらなくても、自分の主義で何を選んでも・選ばなくても、どんな私も私だし、どんな私もまずは受けとめよう、と決めています。
 

つまり言いたいのは、ポリアモリーとモノガミーとは異星人みたいにかけ離れた存在ではないってことです。

だから、「私と違うあなた」として排斥されたくはありません。

というより、誰だって誰かと共通点が全くないということはなかなかないし、逆に完全に同じということもありえないでしょう。

概念を生み出し、定義づけ、名付け、その旗の下に集まり、そして他者を排除し……という動きは、ポリアモリーたちにも、セクシャルマイノリティたちにも、男たちにも、女たちにも、どんな人々の関わり合いの中にも見られます。

もちろん、名前があることで人は人と繋がりやすくなるし、それは安心や励ましにもなるので、名付けそれ自体は悪いことではありません。

でも、名付けた先に境界線を引いて“我々”と“あいつら”とを分け、「自分と違う他者を排斥する」という方向性をもってしまうことは、戦争を生みかねないと考えています。

そうやって我々とあいつらで闘って、あいつらを根絶やしにしたところで、いずれは残った我々のなかでもまた「自分とあいつはここが違う」と、コミュニティは無限に細分化されていってしまう。

「同じ」だということだけを仲間作りのよすがにしていると、結局、最後の一人になるまで争いはなくならないのではないでしょうか。

だって我々はみんなどこかしらお互いに違うのですから。

誰だって、誰かと違うところもあるし、同じところもある。

誰もが、マイノリティ性とマジョリティ性を自分の中にもっている。

性質でも主義でも関係なく、他人との共通点と相違点を、ありのままに受けとめられたらと思います。