最近、ポリアモリーという概念が少しずつ知られるにつれて、ポリアモリーに関する議論が活発になっているという印象を受けます。

今回は、最近のポリアモリーに関する意見をいくつか取り上げてみましょう。
 

まずは、ポリアモリーの“条件”とでも言うべきものについて。

「○○じゃないと(たとえば高収入じゃないと)、ポリアモリーは実践できない」という意見も「『○○じゃないと、ポリアモリーは実践できない』なんてバカバカしい」という意見もよく目にします。

どちらの言っていることも分かるのですが、私としては、結局のところ人それぞれではないかと思います。

高収入じゃないとポリアモリーが実践できないという人もいるし、結婚していたらポリアモリーは実践できないという人もいる。

私個人は「○○じゃないと、ポリアモリーは実践できない」などと恋愛指南めいたことを言うつもりはないのですが、逆に「ポリアモリーは誰にでも実践できるよ!」と能天気に主張されたとしても「ホントに~??」と思ってしまいます。

言えるのは、せいぜい「あなたにもいつか、もう一人好きな人ができるかもしれない。あなたのパートナーにもいつか、もう一人好きな人ができるかもしれない」ということくらいではないでしょうか。

その時にポリアモリーな関係を築けるかどうかは、その人やそのパートナー個別の問題だと思います。

ちなみに私は、もし自分の今の精神的・経済的・社会的な自立を失ったとしたら、ポリアモリーを実践し続けられるかどうか分かりません。

もちろん、それは私の収入が減ったらモノガミーになるとか浮気をするとかいうことではなく「たとえ複数の人を好きになっても、複数の人とお付き合いするだけの余裕はもてなくなるかもしれない」という意味です。
 

次に「不倫や浮気と呼ばれる状態の中にも、複数恋愛であるものと、パートナーへの愛が冷めているからこそのものがあって、前者は『ポリアモリー』とよべる」という意見。

私自身は、ポリアモリーにおける愛の「質」を他人が問えるものだろうか?という疑念を感じます。

「複数の人を真剣に愛している」場合にはポリアモリーだが、「パートナーへの愛が冷めているから他の人を愛する」場合にはポリアモリーではない、というのは、第三者が裁くことではないように思うのです。

そもそも、愛とは、自分の中から取り出して他人と比較することもできないし「この愛は本物」「あの愛は偽物」などと真贋をつけることもできない、とても個人的な感覚。

誰かが不倫や浮気をしている時に、それが複数恋愛なのか、パートナーへの愛が冷めているからなのかは、第三者には(ときには本人にさえも)判断することはできないのではないでしょうか。

また、最近のメディアの取り上げ方として「ポリアモリーと浮気とは違う!」という表現をよく見かけます。

浮気は嘘や秘密のもとにするものだけれど、ポリアモリーは合意にもとづいたものだ、と。

確かにそれはそうなのですが「浮気は悪だけれど、ポリアモリーは善だから認めてくれ」という言い方になってしまうと、結局のところ浮気を生け贄にしているだけで、「自分の倫理的に認められないものを叩く」という構造は変わらないのではないでしょうか。

浮気を共通の敵とすることでモノガミーとポリアモリーとが分かり合う、といった図式には、ある意味「敵の敵は味方」みたいな、仮想敵国を設定した上での結託じみたものを感じます。

誰かと仲良くするために誰かを叩くということが、あまり健康的と思えないのは私だけでしょうか。

私は個人の意見として浮気はしたくもされたくもないのですが、だからといって、見ず知らずの浮気した人をバッシングする趣味はありません。
 

「浮気はもう古い!新しい恋愛のかたち、ポリアモリー!」という喧伝にも違和感があります。

ポリアモリーは、デビューしたてのバンドや新作コスメのような「今までになかった新しい流行」ではありません。

LGBTという言葉が生まれる前から同性を好きになる人は存在したように、#MeTooムーブメントが起こる前から性暴力をなくすために声を上げる人は存在したように、複数の人を同時に好きになり、オープンにお付き合いをする人たちは今までもいたわけです。

そのあり方に名前がついていなかった、あるいはメディアで取り上げられていなかっただけで。

ポリアモリーを「新しい」というのが不思議なのと同じくらい、浮気が「古い」というのも不思議な気がします。

お付き合いのしかたは昔も今もさまざまあり、新しく生まれてくるのはただその“名前”の方でしかないのです。

私はポリアモリーが「恋愛の新しいかたち」とも「恋愛の正しいかたち」とも思っていませんし、恋愛指南まがいのことをしたりポリアモリーを薦めたりするつもりもありません。

また「私個人はこう考えている」「私個人はこう生きている」と表明することはあっても、誰もが私のように生きるべきだ、と言いたいわけでもありません。

ただ、複数の人を好きになることにおいて悩んでいる人たちと、同じ立場で語り合うことならできます。

ポリアモリーという概念を知り、それについて議論することを通して、恋愛や性愛のあり方について誰もがもっと肩肘張らずに語り合える社会になればいいな、と思っています。