今回は「自分にとってアウェイな環境でポリアモリーを語る」ということについて考えてみたいと思います。
その環境とは「ヒューマンライブラリー」。
「ヒューマンライブラリー」とは、リビングライブラリーとも呼ばれる活動で、2000年にデンマークで始まり、日本では2008年に初めて開催されました。
その内容は、人を生きた「本」に見立てて、参加者が「読者」としてその本を借り、本を読む=対話する、というものです。
本と対話するなかで、多様な人々についての理解を深めたり、新しい気付きを得たりすることを目的としています。
本のなかには、LGBTや、心や体の病気あるいは障害をもつ人、アルコールや薬物などへの依存症を抱えた経験がある人などがいます。
私自身は今まで何度も、いろいろなヒューマンライブラリーで「本」として話をしてきました。
私にとって「ヒューマンライブラリー」でポリアモリーの話をすることは、このブログのようにポリアモリーについて文章を書いたり、ポリーラウンジで参加者と交流したりすることとはまた違う体験です。
ポリアモリーの話を聴きたくて来ました!という人もなかにはいるのですが、なんとなく空いてた本を借りてみたんだけどポリアモリーって何?という人も多いのです。
私という本を借りる人が必ずしも私を読むためだけに「ヒューマンライブラリー」へ来たのではない、私は数ある本のうちの1冊に過ぎない、という意味では、他の活動に比べて「ヒューマンライブラリー」は自分にとってどちらかというとアウェイな環境だと思っています。
そういう「ポリアモリーをまったく知らない人」と話すのって、いつもドキドキすると同時に、ワクワクする体験でもあります。
「どういう言葉を選べば、ポリアモリーという概念が分かりやすく伝わるだろう?」
「私の話の何に共感してくれるだろう?逆に、分かり合えない点は何だろう?」
「この人が一番初めにもつ感想は何だろう?」
と考えながら、それぞれの読者との出会いと語らいの時間を味わっています。
私はポリアモリーを「身内でしか共有できない特殊な価値観」にしたくない、だから誰にでも伝わる平易な言葉でポリアモリーを語りたい、と思っています。
そのためには、ポリアモリーという概念を初めて知った人が感じる驚きや疑問に対して、ていねいに言葉を選んで伝えることが大切。
そういう意味で、ポリアモリーを知らない人の初めての反応に数多く触れることができる「ヒューマンライブラリー」は、私の「ポリアモリーを語る」という体験を繰り返しアップデートしてくれる貴重な場だと捉えています。
私が「ヒューマンライブラリー」で大切にしているのは、読者の方と過ごす時間を「授業」や「講演」のような一方的な語りかけにするのではなく、あくまでも双方向性をもった「対話」というかたちにする、ということです。
不思議なもので、私がポリアモリーの話をするうちに、読者の方も自分の恋愛について語り始めることがあります。
そして、なかには「今まで誰にも話したことなかったんですが……」と、胸の内にしまっていた経験を語ってくれる人もいるのです。
「自分だけじゃなかったんですね」という感想をいただくこともあって、私と話すことで新たな気付きが生まれることもあるんだな……と実感します。
普段から主張していることですが、私はポリアモリー当事者としての自分の考えや思いを発信しているとはいえ、ポリアモリーの先生や教祖になりたいわけではありません。
私はただ複数の人を同時に愛してしまううえに、嘘や秘密をもつことができないだけの人間で、そういう私なりの愛し方や付き合い方しかできないし、それが正しいとも、他のやり方より偉いとも思ってはいないのです。
ポリアモリー当事者にもさまざまな人がいて、私はそのたった1例に過ぎません。
それを踏まえて「私とあなたはそれぞれ一人の人間で、私たちは少し同じで少し違う」という対等な文脈の中で、読者の方と語り合いたいと思っています。
「ヒューマンライブラリー」に参加するなかで私が気付いたのは「マイノリティ」という人間が存在するのではない、誰もがマイノリティ性とマジョリティ性とを併せもっている、ということでした。
誰かと誰かが出会ったとき、そこには必ず違う部分があるし、けれど必ず同じ部分もある。
私たちは、同じ部分を手がかりにして対話しながら、お互いの違いを知ってゆくことができるのだと思います。