先日ある人からこんな質問をいただきました。

「恋人が1人だけでは満たされなくて寂しいから、他にも恋人をつくるんですか?」

私はその言葉に、

なんとなく引っかかるものを感じました。

満たされる?

「恋人に満たされる」って、

どういうことなのでしょう。
 

私個人としては、

恋人とは自分を満たしてくれる存在ではない、

と思っています。

恋人と自分との関わりの中で、

自分がみずから満たされることはあっても、

恋人が外から直接自分の足りない部分・寂しい部分を満たしてくれるのではない、

という感覚です。

二村ヒトシ著『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』によれば、

人は誰しも生まれ育つなかで1人ひとり違う「心の穴」をもつようになるそうです。

人は恋をするとつい、

相手が自分の寂しさや「心の穴」を満たしてくれると思い込みがちなのですが、

実際には恋人は自分の心に空いた穴を満たしてくれる存在ではない(自分の心の穴にぴったり嵌まる他人などいない)し、

そのように恋人や恋愛感情を使おうとすることはお互いを傷付ける、

ということが書かれています。

私も自分の心には私独自の「心の穴」が空いていると思っていますし、

そのせいで寂しさを感じたりすることがあるのも事実です。

ただし同時に複数の人とお付き合いしているからといって、

私が他の人に比べてとりわけ寂しがり屋というわけではないと思っています。

むしろひとりきりで過ごす時間も好きな人間です。

1人でカフェで本を読んだり、

美術館や演奏会に行く時間も大切にしています。
 

いろいろなポリアモリー当事者がいるとは思いますが、

私自身は寂しいからポリアモリーな生き方をしているというより、

寂しさまで含めて向き合う覚悟があるからこそ、

ポリアモリーな生き方をしているのだと思っています。

逆説的な言い方に思えるかもしれないのですが、

私はポリアモリーであることをオープンにしようと決めた時、

同時に

「独りになってどんなに寂しくても生きていこう」

ということも心に決めました。

ポリアモリーをカミングアウトし、

そういう私を受け入れようとしてくれる人とだけお付き合いをしていく。

もしかしたら誰からも受け入れられなくて、

ひとりぼっちになって、

最終的には孤独死するような、

他人から見たら「寂しい」人生になるかもしれない。

それでも一度きりの人生、

自分に正直に生きたい。

大袈裟ですが、

まわりに誰一人同じような人がいない(少なくとも、見つけられない)状況で、

自分だけがポリアモリーをオープンにすることは、

当時の私にとってはこのくらい悲壮な覚悟をもって清水の舞台から飛び降りるような一大決心でした。

いま振り返ってみれば

「何もあそこまで思い詰めなくても…」

と苦笑いも浮かぶというものですが、

まったく新しい状況に(しかも周りに同じような人や理解者もいない状態で)飛び込むというのは、

飛び込んだ後の実感に比べてみれば遥かに不安でリスキーに思われるものです。

とはいえ少なくともあのとき心に決めた

「孤独になるかもしれない」

「それでも自分だけでも自分の選択を肯定していたい」

という気持ちが今でも根っこにあるからこそ、

その後も恋人たちとオープンに付き合い、

時にケンカしたり泣いたりしながらも合意を目指して粘り強く向き合う、

という生き方を続けてこられているのだと思います。
 

ポリアモリーはまだまだ認知度も低く、

人の愛し方・人との付き合い方として社会に知られていないように思えます。

今までの「複数の人と同時にお付き合いする」というライフスタイルは、

基本的に相手にオープンにされない「浮気」「二股」などといった倫理的にネガティブなものしか知られていなかったために、

ポリアモリーも浮気や二股と同じものと思われ、

非難を受けることもしばしばです。

だからこそいまの社会のなかでポリアモリーをカミングアウトすることには、

痛々しいくらいの強い覚悟をもたざるをえません。

けれど

「恋人が1人でも3人でも0人でも、関係者全員が合意しているパートナーシップであれば、無関係な第三者は非難しない」

という社会になれば、

ポリアモリー(だけでなくLGBTなどのマイノリティも含めて)をカミングアウトするのにここまでの精神的な強さは必要なくなるのではないでしょうか。