どうもこんにちは。今回の話題は折口信夫の『古代研究 民俗学篇1』です。


これは僕の覚え書きの感が強く、ちゃんと学術的に書くということには主眼を置いていません。あまり難しい言葉を使わずに、自分が理解しやすいようにまとめてみたいと思います。どうぞよろしくお願いします。


さて、このブログのスタイルですが、本文の言葉を一言一句正確にちまちまと解釈するのではなく、自己流にサラッと読み解くスタイルをとります。


なので、学問的に『古代研究』を読みたい方は「『古代研究』の研究」を学者さんがしていらっしゃいますのでそちらをご覧ください。このブログはあくまで「『古代研究』の研究の研究」だということをご理解くださいね。


しかし、本文の検討や解釈についてのご意見はどんどんいただきたいと思っています!みなさんの解釈もぜひぜひお聞かせください!


第三回は「妣が国へ・常世へ」の第三部を扱います

黒:本文

赤:一言

青:要約


併しもう一代古い処では、とこよが常夜で、常夜経く国、闇かき昏す恐しい神の国と考へて居たらしい。常夜の国をさながら移した、と見える岩屋戸隠りの後、高天原のあり様でも、其俤は知られる。常世の長鳴き鳥の「とこよ」は、常夜の義だ、と先達多く、宣長説に手をあげて居る。唯、明くる期知らぬ長夜のあり様として居るが、而も一方、鈴屋翁は亦、雄略紀の「大漸」に「とこつくに」の訓を採用し、阪上郎女の常呼二跡の歌をあげて、均しく死の国と見て居るあたりから考へると、翁の判断も動揺して居たに違ひない。長鳴き鳥の常世は、異国の意であつたかも知れぬが、古くは、常暗の恐怖の国を、想像して居たと見ることは出来る。翁の説を詮じつめれば、夜見或は、根と言ふ名にこめられた、よもつ大神のうしはく国は、祖々に常夜と呼ばれて、こはがられて居たことがある、と言ひ換へてもさし支へはない様である。みけぬの命の常世は、別にわたつみの宮とも思はれぬ。死の国の又の名と考へても、よい様である。


トコヨということばの色々が語られています


常夜は「常夜」とも読めて、恐ろしくて暗い夜の世界でもあったらしいのです。


大倭の朝廷の語部は、征服の物語に富んで居る。いたましい負け戦の記憶などは、光輝ある後日譚に先立つものゝ外は、伝つて居ない。出雲・出石その他の語部も、あらた代の光りに逢うて、暗い、鬱陶しい陰を祓ひ捨て、裏ぎるものとては、物語の筋にさへ見えなくなつた。天語に習合せられる為には、つみ捨てられた国語の辞の葉の腐葉が、可なりにあつたはずである。


これは素朴に見てかなり「古代研究」っぽいことを言ってる気がしますね。


大和朝廷のお話には征服に関するものが多く、負け戦が伝わっているのは勝つための準備段階として以外にはありません。その過程で、暗い「常夜」っぽいお話はどんどん端に追いやられ、捨てられてしまったハズです。


されど、祖々の世々の跡には、異族に対する恐怖の色あひが、極めて少いわけである。えみしも、みしはせも、遠い境で騒いで居るばかりであつた。時には、一人ぼつちで出かけて脅す神はあつても、大抵は、此方から出向かねば、姿も見せないのであつた。さはつて、神の祟りを見られたのは、葛城一言主における泊瀬天皇の歌である。手児呼坂・筑紫の荒ぶる神・姫社の神などの、人殺る者は到る処の山中に、小さな常夜の国を構へて居たことゝ察せられる。国栖・佐伯・土蜘蛛などは、山深くのみひき籠つて居たのではなかつた。炊ぎの煙の立ち靡く里の向つ丘にすら住んで居た。まきもくの穴師の山びとも、空想の仙人や、山賤ではなく、正真正銘山蘰して祭りの場に臨んだ謂はゞ今の世の山男の先祖に当る人々を斥したのだ、と柳田国男先生の言はれたのは、動かない。其山人の大概は、隘勇線を要せぬ熟蕃たちであつた。寧、愛敬ある異風の民と見た。国栖・隼人の大嘗会に与り申すのも、遠皇祖の種族展覧の興を催させ奉る為ではなかつた。彼らの異様な余興に、神人共に、異郷趣味を味はふ為であつた。


外からやってくる恐ろしさについて語られています。けっこうかわいいかも。第二部で扱ったところにも「異郷趣味」って出てきましたよね。柳田國男…のことは割愛します


昔の人びとには外から攻めてくる敵みたいなものに対してあんまり恐怖心をもっていませんでした。なぜなら、彼らは僕達から攻めていかなければ害はない、遠くで騒いでいるひとたちだったからです。彼らは人のいない山奥にひっそりと「常夜の国」をかまえていたのです。だからそんなに怖い人達ではなく、むしろ「変わったやつらもいるんだなぁ」くらいで見ていました。重要な神事に彼らが呼ばれたりするのも、その「遠く(常世的なところ)から来た」感じを味わうためでした。


ほんとうに、祖々を怖ぢさせた常夜は、比良坂の下に底知れぬよみの国であり、ねのかたす国であつた。いざなぎの命の据ゑられた千引きの岩も、底の国への道を中絶えにすることが出来なかつた。いざなぎの命の鎮りますひのわかみや(日少宮)は、実在の近江の地から、逆に天上の地を捏ちあげたので、書紀頃の幼稚な神学者の合理癖の手が見える様である。尤もつとも、飛鳥・藤原の知識で、皇室に限つて天上還住せしめ給ふことを考へ出した様である。神あがりと言ふ語は、地の岩戸を開いて高天原に戻るのが、その本義らしい。浄見原天皇・崗宮天皇(日並知皇子尊)共に、此意味の神あがりをして居させられる。柿本人麻呂あたりの宮廷歌人だけの空想でなく、其頃ではもう、貴賤の来世を、さう考へなくては、満足出来ぬ程に、進んで居たのであらう。ひのわかみやが、天上へ宮移しのあつたのも、同じく其頃の事と思ふ外はない。


教えてやるよ…。本当の恐怖ってやつをサ。だそうです。


昔の人びとがほんとうに怖がったのは「自分たちの世界」(第一回参照)にいる異民とかじゃなくて、「根の国」っていう違う国だったんです。


飛鳥の都の始めの事、富士山の麓に、常世神と言ふのが現れた。秦河勝の対治に会ふ迄のはやり方は、すばらしいものであつたらしい。「貧人富みを致し、老人少きに還らむ」と託宣した神の御正体は、蚕の様な、橘や、曼椒に、いくらでもやどる虫であつた。而も民共は、財宝を捨て、酒・薬・六畜を路側に陳ねて「新富入り来つ」と歓呼したとあるのは、新舶来の神を迎へて踊り狂うたものと見える。此も、常世から渡つた神だ、と言ふのは、張本人大生部多の言明で知れて居る。「此神を祭らば富みと寿とを致さむ」とも多は言うて居るが、どうやら、富みの方が主眼になつて居る様である。此神は、元、農桑の蠱術の神で、異郷の富みを信徒に頒けに来たもの、と思はれて居たのであらう。


原初的な神様のこと?ですかね。


すごく昔に「常世神」という神様が現れたそうです。その神様はなんの変哲もない虫の姿をしていて、豊かさと長寿をもたらす神様でした。そして、より重視されていたのは「豊かさ」のほうらしいです。


話は、又逆になるが、仏も元は、凡夫の斎いた九州辺の常世神に過ぎなかつた。其が、公式の手続きを経ての還り新参が、欽明朝の事だと言ふのであらう。守屋は「とこよの神をうちきたますも(紀)」と言ふ讃め辞を酬いられずに仆れた。


ほ、ほんとか??


仏というのももともとは九州地方の常世神でした。


唯さへ、おほまがつび・八十まがつびの満ち伺ふ国内に、生々した新しい力を持つた今来の神は、富みも寿も授ける代りに、まかり間違へば、恐しい災を撒き散す。一旦、上陸せられた以上は、機嫌にさはらぬやうにして、精々禍を福に転ずることに努めねばならぬ。併し、なるべくならば、着岸以前に逐つ払ふのが、上分別である。此ために、塞への威力を持つた神をふなどと言ふことになつたのかも知れぬ。一つことが二つに分れたと見えるあめのひぼこ・つぬがのあらしとの話を比べて見ると、其辺の事情は、はつきりと心にうつる。此外に、語部の口や、史の筆に洩れた今来の神で、後世、根生ひの神の様に見えて来た方々も、必、多いことゝ思はれる。


最後の文です。神々への対処方法が描かれています。


神様は豊かさと長寿を授けてくれるけれど、機嫌を損ねるとよくないことも引き起こします。なので、常世からこの国に入ってきてしまった神様は機嫌よくいてもらうために敬います。でも、ほんとは来る前にお断りしたいんです。



要約


実は、常夜は「常夜」とも読めて、恐ろしくて暗い夜の世界でもあったらしいのです。


大和朝廷のお話には征服に関するものが多く、負け戦が伝わっているのは勝つための準備段階として以外にはありません。


その過程で、暗い「常夜」っぽいお話はどんどん端に追いやられ、捨てられてしまったハズです。


そもそも、昔の人びとには外から攻めてくる敵みたいなものに対してあんまり恐怖心をもっていませんでした。


なぜなら、彼らは僕達から攻めていかなければ害はない、遠くで騒いでいるひとたちだったからです。


彼らは人のいない山奥にひっそりと「常夜の国」をかまえていたのです。


だからそんなに怖い人達ではなく、むしろ「変わったやつらもいるんだなぁ」くらいで見ていました。


重要な神事に彼らが呼ばれたりするのも、その「遠く(常世的なところ)から来た」感じを味わうためでした。


それよりも、昔の人びとがほんとうに怖がったのは「自分たちの世界」(第一回参照)にいる異民とかじゃなくて、「根の国」っていう違う国だったんです。


すごく昔に「常世神」という神様が現れたそうです。


その神様はなんの変哲もない虫の姿をしていて、豊かさと長寿をもたらす神様でした。


そして、より重視されていたのは「豊かさ」のほうらしいです。


仏というのももともとは九州地方の常世神でした。


神様は豊かさと長寿を授けてくれるけれど、機嫌を損ねるとよくないことも引き起こします。


なので、常世からこの国に入ってきてしまった神様は機嫌よくいてもらうために敬います。


でも、ほんとは来る前にお断りしたいんです。




ここまでの要約





想像もつかないような昔の出来事の名残がまだ残っていて、それを研究しようと思います。


でも、昔のひとが考えていたことを自分たちの尺度で考えると色々読み違えるから、できるだけそのまま見ていきたいです。


昔、「ひとぐに」「ひとの国」という言葉があって、それが「自分たちの見たことも聞いたこともないところで自分たちと同じように生活している人のいる国」を指すみたいです。


そして、そういう見知らぬ国を昔の人たちは想像していたのです。


しかし、自分たちの先祖の先祖みたいな人びとが持っていた「自分たちの世界」と「どこか遠くにある世界」は、最近になってびっくりするほど簡単に消えてしまいました。


そこで、そんな昔の人があこがれてた世界をもう一回考えてやろうぜ!と思うわけです。先祖のためにもなるでしょう。


その世界は、色々苦労が絶えない人生で一息つきたいなって時に、手軽に空想して安らげるところでした。


「ひとぐに」の話は大昔のこと過ぎてちゃんとは残されてないんだけど、でもそういうものへの憧れって遺伝子レベルで僕たちのなかに残ってるんです。


実は、熊野の旅で海岸の崖に立ったら懐かしい気分になりました。


そのとき、これってもともと自分の心の中に遺伝子レベルで受け継がれてきた「ふるさと」の記憶じゃない!?と直観しました。


昔の神様たちが求めたのもこの「ふるさと」であって、これからは「妣が国」と呼びます。


これを「妣が国」と呼ぶ理由がふたつあります。


その一、お母さんと過ごした故郷を離れてきた若者のノスタルジックな気持ちがあるから。


その二、女の人が他の村のひとと結婚して不幸になるという結末がなんとなく心の中にあって、そのせいで他の村に行ってしまった女の人が心配でならないから。


今は二つ目の理由の方が有力かもしれません。







妣が国が心の「ふるさと」であっても現世とは暮らしが違ったはずです。


だからファンタスティックな登場人物が多いんですよ。


ファンタスティックなビーストたちの話から推論してみましょう。


「妣が国」はふるさと、「常世」はその進化系で、これから目指すところということになるんです(?)。


西の彼方にある「魂のふるさと」の妣が国だったはずのものが、東にある未知の国、「常世」という考えに変化したんですね。


昔の人は常陸くらいが常世の境界だと考えました。そこから先は「みちのく」…。みちのく、みちのくに…。ね?わかるでしょ?


でも海の外が常世だって考える方が自然かもしれません。


こういう話は、文献資料通りの歴史を信じてる人たちにはちょーっと理解できないでしょうね。


まあそういうひとたちは後回しにして、とにかく「常世」は海のかなたにあるのですよ。


そうやって考えるようになってから色々なお話が生まれてきたのです。


昔の人は、「海産物とかどんだけ獲ってもなくならないし、常世ってめちゃくちゃ豊かな国なんだろうな」、と思うようになりました。


でも、常世は豊かさの源だからこそ「貧しさ」も自由にすることができたのです。


そういう意味では敵対するものを貧しくさせてしまう恐ろしい呪詛の力も持っていると言えます。


ところで、常世と現世を行き来するには相当時間がかかるはずです。だって自分たちの世界とは全く違うめちゃくちゃ遠いところにある世界なんだもの。


つまり、浦島太郎の話もこういうわけだから時間が経っていたんですね。


仮に移動時間のことを考えないなら、常世がなんとなく長寿の国という風に見られるのは、現世と常世に時間間隔のズレがあるからなんですよ。


まとめると、常世という国の時間や空間の尺度は、まったくこちらの世界と違っています。だからめっちゃ長生きの人とか、異形のもの(ファンタスティックなビースト)とかも普通にいます。


とにかく、「とこよ」っていう言葉は「豊かさ」と「長生き」とバチバチに癒着してます。まあでも最初にご先祖が考えたのは「豊かさ」の方だったんじゃないかと思います。


歴史的なことを言えば、常世が長生きと結びついたのは、不思議なことをする人(陰陽五行説の幻術者)への信仰からなんです。そういうわかりやすい驚きに、常世という考え方がのっかって、「不老不死」とか伝説めいた話が広がったんですよ。






実は、常夜は「常夜」とも読めて、恐ろしくて暗い夜の世界でもあったらしいのです。


大和朝廷のお話には征服に関するものが多く、負け戦が伝わっているのは勝つための準備段階として以外にはありません。


その過程で、暗い「常夜」っぽいお話はどんどん端に追いやられ、捨てられてしまったハズです。


そもそも、昔の人びとには外から攻めてくる敵みたいなものに対してあんまり恐怖心をもっていませんでした。


なぜなら、彼らは僕達から攻めていかなければ害はない、遠くで騒いでいるひとたちだったからです。


彼らは人のいない山奥にひっそりと「常夜の国」をかまえていたのです。


だからそんなに怖い人達ではなく、むしろ「変わったやつらもいるんだなぁ」くらいで見ていました。


重要な神事に彼らが呼ばれたりするのも、その「遠く(常世的なところ)から来た」感じを味わうためでした。


それよりも、昔の人びとがほんとうに怖がったのは「自分たちの世界」(第一回参照)にいる異民とかじゃなくて、「根の国」っていう違う国だったんです。


すごく昔に「常世神」という神様が現れたそうです。


その神様はなんの変哲もない虫の姿をしていて、豊かさと長寿をもたらす神様でした。


そして、より重視されていたのは「豊かさ」のほうらしいです。


仏というのももともとは九州地方の常世神でした。


神様は豊かさと長寿を授けてくれるけれど、機嫌を損ねるとよくないことも引き起こします。


なので、常世からこの国に入ってきてしまった神様は機嫌よくいてもらうために敬います。


でも、ほんとは来る前にお断りしたいんです。




これで第一章「妣が国・常世へ」は終了になります!


いやあ難解。めちゃくちゃ読み飛ばした箇所もあるので、じっくり読みたい方は辞書を片手に読んでみてください。


次回はこの章を通してどういうことが読み取れるのか、まとめ的なものを行いたいと思います!


今回はここまでにします!ありがとうございました!