3)大野勝彦さんの会に参加しました | 木の家散歩

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今年の1月13日に急逝された大野勝彦さんを偲ぶ会が8日、学士会館で開かれました。

約250人の参加者を得て、大野さんの業績の報告や故人を偲ぶ話を聞くことができました。



大野さんの主宰する大野建築アトリエにて建築の修行をした私にとって、大野さんは建築についてはもちろん、身の律し方を含めてまさに「親父」としての存在でした。

会の世話人を勤められた滋賀県立大学の布野修司先生も同様な言葉でスピーチを締めくくっていましたが、ほとんどの参加者が共通に感じている心情ではないかと思われます。

大野さんは東京大学の建築構法学(建築の造り方の学問)の権威である内田先生に師事され、大学院時代からアトリエを開設して建築の工業化技術による住環境の近代化による新しい住まい、町造りを提案してきました。

近代建築のユートピアを夢見たコルビジェなどのビジョンを、日本の工業化技術を使って、日本独自のものとして発展させようと試みました。

その一つの成果が日本の住宅産業の一翼を担うまでに成長したセキスイハイムです。

開発当初は鉄骨のボックスユニットの積み木のように、無目的な箱の空間=スケルトンとして実現され、将来的には住まい手の自由な発想と選択によって内装されるイメージが想定されていました。


そうした開発の成熟と共に、住環境研究所という企業内研究にとどまらない研究所の新設も行い、今でも広く住環境研究を重ねてきています。

私が入所したころは、ちょうどそのような住宅開発と研究所の活動が軌道に乗り、「都市型住宅」という本としてまとめられ、新たな展開に入ろうとする時期でした。

日本各地の木造住宅の研究と戦後の近代化から一歩遅れることになった地域木造住宅の振興や開発プロジェクトが、当時の建設省を中心に取り組まれ始め、そのプロジェクトの中心的コンサルタント、建築家として大野さんが精力的に活動し始めた時です。

そして、「群居」という独自のメディアを建築家の石山修武氏、渡辺豊和氏、布野修司氏と発行した時期でもあります。

また、地域住宅計画(HOPE計画)という新しい地域の固有の、自立的計画作りのコアメンバーとして参加し、日本各地の住宅・町づくりの提案を行いました。

私は大野さんの鞄持ちとして、福島県喜多方市、長野県千曲市、高知県いの町に行きながら、地域の木造住宅と町づくりの提案のお手伝いをしましたが、その他多くの町づくりをアトリエでは取り組みました。

また、家づくり85プロジェクトという地域の工務店、材木店、設計事務所などの協同組合が造る地域型木造住宅のコンペでも「いばらきの家」のコンサルタントとして開発設計をして、モデルハウスの建設に繋がりました。

更に、新潟県の公営住宅の設計やHOPE計画に伴う公営住宅、集会所、ポケットパークなどの設計に携わりました。

そして、埼玉県朝霞市にパティオ棟、スクエア棟、リニア棟という三つの形式の違うハウジングコンプレックスとしての共同住宅による町づくりを担当して独立しました。

それらの仕事を通じて学んだことは枚挙に暇がありません。

建築家の仕事がどうしても作品の評価に集約されてしまう状況の中で、大野さんは「建築と町づくりの仕組み」を目指していたと思います。

アーキテクチャーという概念は、日本では建築と訳されますが、本来はもっと広い意味での哲学、概念、フォーマット、ソフトなどの仕組みづくりを表しています。

その仕組みの中から、それぞれの担い手、環境によって様々なものが創意工夫されて造られる、そんなイメージを常に抱いていたのではないかと。

それは、日本の木材を使って、共通のフォーマットである造り方=構法を再構築した地域型木造住宅でもあり、工業化工法を使ったユニット住宅でもあり、地域の人と物づくりのネットワークでもありました。

その仕事ぶりがあらわすように、決して強く自己主張をせずに、人間関係を構築することも建築としていたことから、会場には様々な方がみえていました。

人を見抜く力が抜きん出ていて、それぞれの個性を活かし、ある程度力が付いたと思えば比較的自由に任せることのできるブラックホールのような大きな
包容力を持った存在感は今でも私の中に残っています。


奥様で建築家として共に活躍された高山さんの謝辞の中で、大野さんの作品を見て「そっけなく、ほのぼのと」という表現をした方がいることを紹介されましたが、まさに自己主張しないそっけなさと、生活していくことで出てくるほのぼのさが、まさに大野さんの業績と人となりを表しているように思われます。

時代のジャーナリズムに媚びない、作品という枠に収まらない、大きな時代の流れが生んだ、大きなアーキテクチャーを作った真の建築家です。

大野さんの提案するモデルはその当時の多くの人には必ずしも受け入れられないことが多くありましたが、今では全盛期とも言える地域の木材を活用した地域型木造住宅のコンセプトや名称は、30年近く前に提唱されていました。

時代がやっと追いついた言った方が妥当なことがたくさんあります。


大野さんの描いた地図のほんの片隅でさえまだキチンとできていない私ですが、新たな誓いを胸に会場を後にしました。

出来ていないから、今でも後ろにいて間違えないように見守ってくれています。

最後に映画監督の宮崎駿さんの言葉を引用させていただきます。

「住みやすさって、自分をかたることじゃないんですね。大事なのは借景なんです。自分の住まいをいかにして人様に借景してもらうか、ということを考える。いかに自己主張するかじゃないんです。そして自分も人様のところを借景する。」

心よりご冥福をお祈りします