お久しぶりです。DaiKiです。

 

「いじめによる自殺0」を目指すこのブログですが、内容を吟味・練るために更新頻度が下がっています。

 

更新しない間に何をしているかというと、各種専門書を読みあさったり、考えをまとめるノートを書いています。アイディアノートというやつですかね。考えをより体系化(まとめ)して、いじめに関わる多くの人の助けになる内容を提供する準備をしています。

 

今回は以下にDaiKiのアイディアノートの一つを、「編集なしで」コピペします。

2500字強の長文ですが、現在、僕はほぼ毎日こういったノートを1つ以上書いています。

文章が稚拙だったり、です・ます調でなかったり、構成・説明が不十分であったり、内容も詰めきれてませんが、ぜひ読んでみてください。あなたの生き方の参考になることは間違いないです。

 

以下、いま、DaiKiが考えていることです。感想・ご意見いただけたら幸いです。

 

 

【自傷行為はいけないことか?】

落ち込んだ時、自分をあえて傷つける行為に及ぶ経験は、繊細な人の多くがすることだろう。やらなければならない仕事から逃げたり、人間関係を壊すような言動をとったり、大切な物を壊したり、身体をかきむしったり、自傷行為に道具を用いたり・・・

 

なぜこのような自傷行為に走るのか、正確な理由はわからない。現実逃避的手段として、遺伝子に埋め込まれているのかもしれない。猫も、極度のストレス下においては、身体を舐めすぎて肌荒れを起こすらしい。

理由としては、あるいは目的論的には、自傷行為によって他人に構ってもらって、他者から救いを求めていると言える。他人に構ってもらうことは、生まれた時から求めてきた原始的幸福である。原始的幸福が十分になれば、より高次の幸福を求めることができるようになるのだろうか。

(なお原因論的には、とにかくストレスの原因を探ることになるが、自傷行為を選択する理由を説明することはできない。)

 

ストレスから自傷行為に及ぶことについて、一つだけ確かなことはある。それは、自傷行為によってはストレスの抜本的解消ができないことだ。

しかし、ストレスの抜本的解消ができないからといって、自傷行為を完全に否定できるのか。一時的な解消もまた必要ではないか。

 

余談だが、この文章を読んでいる全ての人に理解してほしいことがある。それは、ストレスを感じる自分、ストレスの一時的な解消として自傷行為をする自分に、責める点はないということだ。

ストレスを感じて何が悪い?感じない人は鈍感か、恵まれた環境にいるだけだ。中には、ストレスの原因となり得るものを把握して、巧みに避けることができる人もいる。しかし、それは熟練の技であり、私たちがこれを一朝一夕にできないからといって、責められる筋合いは全くない。

そして、ストレスの解消方法に自傷行為を選ぶことに、なぜ他人から責められる必要があろう?自傷行為を選択するまでに、様々な葛藤を経験した私たちは、人よりも努力家だ。自傷行為をしなかったという結果が偉いのか?結果が全てか?そんな人生のどこに意味があるか。

自分で自分を許せない、責めたいと思うあなたは真面目な人だ。真面目な人が損をする世の中であってはならない。しかし、真面目に自分を責めて、あなたはどこへ向かいたいのか。筋を通して不幸のループから抜け出さないことを、望んでいるのか。それともやはり、不幸せな自分を構ってほしいのか。

 

本題に戻ろう。

自傷行為はストレスの一時的な解消方法として、今のあなたに必要である。しかし、未来永劫に必要か、と問われれば、それは違う。

そして、ストレスの抜本的解消ができない限り、自傷行為をやめることはできない。

 

ストレスの抜本的解消に必要なものは、大きく二つある。一つは、原因論的発想からくる、「ストレスの元を断つ」ことだ。勉強がストレスなら、勉強をやめれば良い。あなたの過去を遡り、あなたが本当にやるべきことだけをしていく。自分の人生の役割を知って、それに向けた活動を充実させれば、慢性的なストレスとは無縁になる。

もう一つは、目的論的発想からくる、「自分は幸せになると決心して、不断の努力をする」ことだ。どのように生きても、ストレスの原因は多かれ少なかれ出会う。その際に、例えば15秒深呼吸してストレスの元を深く考えず、別のことを考える作業をする(経験則上、深呼吸して何も考えないよう心を無にすれば、15秒後にはストレスの元以外の物事について、3つほど考えるようになっている。そちらに集中すればよい)。また、ストレスを発生させる自分の特定の行動習癖を把握して、それを避けるマイルールを作って厳格に履践する。

 

これら二つの方法論のうち、難しいのは目的論的アプローチだ。不断の努力の困難さは、想像を絶する。時に何度も、必ず失敗する。それでも、繰り返さねばならないのは人生の苦行だ。

目的論的アプローチが難しいのは、失敗が必然であるだけではない。心が沈んでいる時には、「これをやると決めたが、なぜやらなければならないのか・・・」と努力自体を否定したくなる。この、「努力の否定」が最も強い敵であり、多くの人は、繰り返す失敗の中で、遂には努力自体を否定して挫折する。「努力の否定」に負けるのである。

 

なぜ、「努力」をしなければならないのか。それは、ストレスの抜本的解消をするためであり、自傷行為を止めるためであり、「幸せになるため」である。

だが、「幸せになる」ことは必要なのか。幸せになることは私たちの義務なのか。

 

答えは、「幸せになることは義務ではない。しかし、あなたが自分の人生を一度見つめれば、幸せになることを求めることは必然である」となる。

 

義務付けられた物事に人は価値を感じない。「幸せになれ」と言われて、なれる人はいない。「幸せになること」を義務だと定義したら、その時は幸せがなくなる時だ。

 

だからと言って、人は自堕落に生きて良いのか。幸せにならずに、自傷行為を続けていいのか。

自傷行為をすれば、必ず心は苦しくなる。人生の辛苦を舐めることとなる。

辛い環境の中で自我が芽生える人がいる。「辛い環境から逃げたい」と思った人、自我が芽生えた人は、その逃げ口が「幸せになること」ただ一つであることに気づく。

 

そして、「幸せになる」ためには、不断の努力が必要となる。これは困難な、苦行である。

つまり、辛い環境で自我が芽生えた人には、二つの選択肢しかない。元の環境の中に居続けて辛い思いをするか、「幸せになる」ための苦行をするかである。どちらを取ってもすぐに「幸せになる」ことはできない。むしろ一時的な苦痛からの逃避が容易なのは、元の環境の中で自傷行為をすることだ。

 

最後に、辛い環境で自我が芽生えた人に伝えたいことがある。「幸せになる」ための苦行に終わりはない。その道では、永遠に苦しむことになるといっても過言でない。しかし、「幸せになる」ための苦行の道では、苦行に見合っただけの、いやそれ以上の「幸せ」が与えられよう。それは、一日苦労した後の達成感であり、努力が報われる有形無形の報酬であり、日々成長する自分に対する健全な自信である。

 

あなたは、私は、どちらを求めるか。